松代は北信濃の中では温暖な気候に恵まれている。
南から東にかけて保基谷山系の山々に囲まれ、西から北には千曲川の清流が、その向こうには善光寺平が広がっている。
遠く西には北アルプスの雄姿が、北には戸隠連峰・飯縄山などが望まれる。
松代地域での文明の足跡は古い。山間部では旧石器時代の遺跡、千曲川に沿った地域では縄文・弥生時代の集落跡が発見されている。5~7世紀ごろの古墳も多く、国史跡の大室古墳群には石を積み上げた積石塚古墳を中心に約500基が密集している。 平安時代には、観音信仰を中心とした仏教の隆盛がみられた。重要文化財の仏像群を安置する清水寺(せいすいじ)をはじめ、清滝観音、虫歌(むしゅうだ)観音などはこの時代を起源としている。
町から南東を見ると、円型の独立峰である皆神山(みなかみやま)がある。この山は、中世から近世にかけて地域修験の霊場であった。頂上の神社には、中世の修験道建築や仏像が残されている。
戦国時代には激しい戦いの地となった。地方豪族が築いた数多くの山城跡が周辺の峰々に残っている。また、武田信玄が海津城(現在の松代城)を築いた。武田信玄と上杉謙信は、松代の西から北に広がる川中島を舞台に、天文22(1553)年から永禄7(1564)年の12年間に5回の戦いを繰り広げた。
江戸時代に入ると、上田から真田信之が松代に移封され、約250年間真田10万石の城下町となる。近年、国史跡の松代城跡や重要文化財の旧横田家住宅(武家屋敷)などが復元されたほか、旧武家町を中心にした歴史の道が整備されている。
真田家の別邸であった旧真田邸や旧藩校の文武学校(ぶんぶがっこう)も残っている。また、真田宝物館には、真田家の膨大な大名道具が収蔵されている。
松代は、『庭園都市』ともいわれている。
通りに沿って並ぶ中級武士の屋敷には、周辺の山を借景にした池のある庭園と菜園があり、その池から池へ水路が続いている。『泉水路』と呼ばれ、日本中探しても松代にしかない。
松代はさまざまな人物も輩出した。
『日暮硯(ひぐらしすずり)』で知られる恩田木工民親(おんだもくたみちか)は、窮乏する藩の財政改革に力を尽くした。8代藩主幸貫(ゆきつら)は、藩政改革や殖産興業に努めたほか、幕府老中となり海防掛として尽力した。幕末から明治にかけては、思想家として知られる佐久間象山、大審院院長となった横田秀雄、製糸技術を導入し日本で最初の民間製糸工場の開業と発展に尽力した和田英がおり、『カチューシャの歌』で知られる近代女優第1号の松井須磨子もこの町の生まれである。
第二次大戦では、松代へ政府および天皇御座所を含めた大本営の移転が計画され、3カ所の山腹に総延長約9.5kmもの地下壕が掘削された。現在、象山地下壕が一般に公開されており、舞鶴山の地下壕は気象庁の精密地震観測室として利用されている。昭和40~43年には、世界屈指の地震観測所直下で松代群発地震が発生した。最盛期には1日で3回の震度5を含め661回の有感地震があるなど、日本中の話題となった。
このように、松代の中心部は城下町の面影を色濃く残し、周辺地域には、より古くから現代までの文化財が多く散在する。
松代は歴史と文化財の宝庫であり、味わいがいのある町である。