松代の神社

白鳥(しろとり)神社

 社殿は、西条の舞鶴山にある。警察学校裏に一の鳥居があり、坂道を300mほど上り、二の鳥居の前で石段を上ると、玉垣に囲まれた拝殿と本殿がある。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)や真田家の祖とされる貞元(じょうげん)・貞保親王、武靖大明神などで、真田家及び藩士たちの氏神である。初代信之が上田から松代へ移封直後の寛永元(1624)年、小県郡海野村(現東部町)から勧請(かんじょう)した。
 現在の社殿は文化10(1813)年に、7代幸専(ゆきたか)が再建したもので、その際に藩祖信之の霊が合祀された。古雅崇厳を極めた建築である。拝殿に向かって右側の神厩(しんきゅう)には、8代藩主幸貫(ゆきつら)の命で作られた諏訪立川流2代和四郎富昌(わしろうとみまさ)(1782-1856)作の神馬(しんめ)がある。昭和53年に長野市の文化財に指定。
 拝殿左側の絵馬殿には騎射額・中島流砲術・正真流剣術等多くの江戸時代の額が掲げられ、武士たちに信仰されていた。
 明治31(1898)年に県社に昇格した社歴がある。真田家中興の8代幸貫の没後100年に当たる昭和26(1951)年に2代信政からの歴代9柱も合祀され、現在に至っている。

中村(なかむら)神社

 中村神社は西条小学校の北の神田川沿いにある。かつて松代町周辺は「英多荘(あがたのしょう)」という荘園であったが、この荘園内にいくつかの鎮守があり、その一つが中村神社で西条地区の産土神(うぶすなかみ)である。
  異説もあるが延喜式に記録のある式内社で、延長5(927)年にはここにあったと思われる古い社である。祭神は天児屋根命(あまのこやねのみこと)・大国主命(おおくにぬしのみこと)・建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・素戔鳴命など。平成15年の善光寺ご開帳の折、松代から奉納された回向柱は、この神社から切り出された。
 社伝によると、古くは高遠山中腹の宮の平にあったが、人々が次第に山ろくに住むようになり、現在地に移されたと伝えられる。永禄年間に兵火で本殿・拝殿・社庫などすべてを消失した。永禄12(1569)年に西条裕直が大旦那となり、社殿を再建した折の棟札に「信州埴科郡英多邊庄西条大国大明神社造営」と書かれ、そのころは大国主命が主神であり、西条氏の保護を受けていたことが分かる。
 元禄年間の書上げには諏訪社と称され、宝暦9(1759)年の同書には中村神社大明神宮と記されている。平成15年に立派な石の大鳥居と石敷きの参道が氏子から奉納された。例祭は10月3日。

祝(ほうり)神社(諏訪社)

 町の人々は、松代町方の守り神(鎮守)として「お諏訪さん」と呼ぶ。祭神の生魂命(いくたまのみこと)・建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)・八坂斗売命(やさかとめのみこと)が合祀された延喜式内社で、埴科郡五社の一つ。建御名方富命・八坂斗売命の諏訪二神を祭る社は、もと海津城二の丸付近にあり、天文から永禄年間にかけて、武田信玄が、上杉謙信との戦いに備えて海津城を築いた時、城内の鎮守として信仰したと伝える。
 その後、慶長3 (1599) 年の田丸直昌(ただまさ)の時、現在地に移し、慶長13(1608)年に松平忠輝が入封して、上記2神を祝神社相殿に遷座合祀の上、社領150石を寄進。社殿も再建して、松代の産土神及び総鎮守神として崇敬されるようになった。歴代藩主の帰依厚く、酒井忠勝が松代へ入封時(元和5年)、さらに30石寄進された。元和8年に真田信之が来ていっそうの信仰を受け、寛文12(1672)年に本社殿・拝殿・鳥居などを再建し、寛延4(1751) 年に社号を祝神社と改めた。しかし天明8(1788) 年の大火で全焼し、現在の社殿は文化9(1812) 年に完成したものである。
 本殿は間口・奥行とも1間余、入母屋造り銅瓦葺き。祝殿と拝殿は間口4間・奥行き7間の瓦葺。明治15(1882)年郷社となった。
 現在稲荷社・八幡社・天神社・西宮神社・恵比寿神社・猿田彦社・宗方社など多くの境内社があり、国家鎮守から学問・商業・家屋敷・食物・治水・漁業・道案内に至るまで八百万(やおよろず)の神様が祭られている。その大部分は明治42年に町内各町から合祀されたものである。 

玉依比売命(たまよりひめのみこと)神社(池田の宮)

 東条天王山南側山ろくにある延喜式内社。祭神は玉依比売命・天照大神・建御名方命で素戔鳴命を合祀。玉依比売命は海神系で神武天皇の母でもあり、安曇族の祖神ともいわれ、同属の宗像(むなかた)三神も祭られ、県下でも珍しい神社とされる。
 社地名を頭に付けて「磯並(いそならべ)大明神玉依比売命神社」「池田の宮三社第一殿玉依比売命神社」ととなえ、大宝律令制定後の信濃国埴科郡英多の郷の産土神・鎮守の神様であった。
 古くは今の岩沢地区市川にあり、磯並(今の中川)に移り、現在の池田の地へは寛喜元(1229)年に移ったといわれる。今もケヤキの大木の並木の参道脇に、池の名残の低地がある。
 神社の相殿に祇園社があり、裏山は天王山で、松代第一の大祭の祇園祭には、ここで天王おろしが行われ、神輿が出た。境内の神輿倉の神輿は、慶長9年に松平忠輝の寄進と伝えられ、市の文化財に指定。祭礼には城下中町の仮屋に遷座し、競馬(くらべうま)や大門踊りなどが行われ、近在屈指の大祭だった。
 現在の社殿は天保4(1833)年の再建で、近在では珍しい八棟造り。拝殿の額は6代幸弘の筆になる。古来、松代藩崇敬の神社で、明治6年(1873)に郷社、その後県社となった経歴がある。
 この神社では正月6~7日に「御田祭 (御田植神事) 」、「児玉石の神事」、そして「御判神事(包替神事)」という特色ある神事が行われ、その年の農作物の吉兆を占う。市の無形民俗文化財に指定。

源関(げんせき)神社

 豊栄地区関屋に鎮座する神社で、主神は建御名方富命・八坂刀売命・事代主命。創建は明らかではないが、社伝によれば諏訪氏の一族である大祝為盛が延久元(1069)年に関屋に住んで、関屋氏の祖となったとき産土神として建御名方命を勧請したのが始めらしい。
 社殿は覆屋の中にあって、建物は一間社流造りの形式。屋根は板葺きで母屋は丸柱、向拝の柱は面取りの角柱が用いられている。母屋の柱上に舟肘木(ふなひじき)、妻飾りは豕扠首(いのこさす)で正面に幣軸付板扉をつけ、三方を板壁として切目縁(きりめえん)をまわしている。
 向拝は大面取角柱で木鼻付頭貫を通し、組物は連れ三斗。母屋柱と向拝柱を繋虹梁(つなぎこうりょう)で結び、正面に三段の木階をつけている。
 屋根は補修されているが、舟肘木等の形が古様で、頭貫の木鼻にある花文の飾りは珍しい。
 応永12(1405)年に社殿建立の棟札が残っており、本願主関屋市兵衛の名があり、関屋氏の保護があった。大工・田中新左衛門以下の人名が書かれ、造立の趣旨を明示している。棟札は長さ106cm、上幅17.2cm。昭和44年に長野市の文化財に指定。例祭は9月15日。

頣気(いき)神社

 西寺尾柳島にあって池生命(いけぶのみこと)・建御名方命・事代主命(ことしろぬしのみこと)・猿田彦命を祭る。社伝によると、雄略(ゆうりゃく)天皇3年正月に字池清水に創建された。大同元(806)年に坂上田村麻呂によって字清水畑(ばたけ)に移されたという。
 『日本三代実録』に、「元慶(がんぎょう)5(881)年10月9日甲申授、信濃国正六位上池生神(中略)従五位下」とある。この池生神は、『延喜式神明帳』に記載されている?気神社であるという。武門の帰依も厚く、木曾義仲が養和元(1181)年に古川沿いに移建したと伝える。また、新田義貞が本社に祈願して建武元(1334)年に社殿を現在地に移したという。
 永禄4(1561)年の川中島合戦の兵火で消失。慶長元(1596)年に造営されたが、寛保2(1742)年の大洪水(戌の満水)で流失した。翌3年に氏子が造営したが、文化12(1815)年の火災でまたも焼失。現在の社殿は文政3(1820)年の造営である。
 同神社の境内の中程に火伏せの神様の古峯神社と、鳥居のわきには芭蕉の句「かほ(顔)に似ぬ発句も出てよはつ桜」を刻んだ「発句塚」がある。この西寺尾の地に生まれた俳人・ノ左(へっさ)が建てたものである。

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