佐久間象山

佐久間象山(1811~1864)

江戸時代後期の思想家で、海防攘夷から開国論者に転じた幕末の先覚者。松代藩の下級武士の子として生まれ、幼名啓之助、通称修理、象山は雅号。父および鎌原桐山から儒学を学び、20歳のころには詩文・和算・馬術・琴などにも長じ、武術も免許皆伝の秀才であった。
 天保4(1833)年に江戸へ出て佐藤一斎に師事して朱子学を学び、藤田東湖、渡辺崋山らと交わる。一時帰藩するが天保10(1839)年、28歳で再び江戸へ出、神田お玉が池に象山書院を開いて、多くの門弟を集め、経書・朱子学などを教えた。30歳で『江戸名家一覧』に名をつらねた。
 天保12(1841)年に藩主幸貫が幕府老中となり、翌年海防掛に就任すると、象山に海外事情を研究させた。象山は『海防八策』を書き藩主に上申する。14年には韮山に赴いて江川太郎左衛門から西洋砲術を学び、翌年には黒川良安からオランダ語を習得した。その後藩命で松代へ帰り、山ノ内町沓野の調査を行った後、嘉永3(1850)年に再度江戸へ出て兵学・砲術教授を開始した。門下生に勝海舟・橋本左内・,坂本竜馬・吉田松陰・小林虎三郎・河井継之助などがいた。安政元(1854)年には吉田松陰の密航にかかわったとして投獄され、以後9年間松代で謹慎生活を送った。元治元(1864)年に幕命で京都へ行き、公武合体・開国論の立場で皇族・公卿との接触中に急進的な尊皇攘夷派に暗殺された。
 象山は幕末の激動期にあって、開国論を説き、「窮理の精神」を重んじ、「東洋の道徳と西洋の芸術(科学技術)」の重要性を唱えた。

象山神社

 象山を祭るため昭和13(1938)年に造営された。昨今は、「知恵の神」「学問の神」として、入学・合格祈願の参拝者が多い。境内は3,575坪あり、本殿は台湾阿里山のヒノキを用いた桃山式流造。本殿右前のご神木は、樹齢200年余のカエデの一種で、初代松代藩主・真田信之の忠臣で殉死した鈴木右近の屋敷跡の木を残したものという。
 
境内には、象山に関係する次のような建物や石碑がある。

    高義亭
    門人吉田松陰の密航に連座して蟄居中に住んだ屋敷。御安町にあった聚遠楼の客間で、高杉晋作や久坂玄瑞らをここに迎えて会談した。昭和52年に移築。
    煙雨亭
    象山が元治元(1864)年に暗殺されるまで、最後に京都で住んだ家の中にあった茶室。昭和57年に移築。
    省けんの碑
    余年二十以後 乃知匹夫有繋一国 三十以後 乃知有繋天下 四十以後 乃知有繋五世界」。有名な省けん録の最後の一節で、自筆の漢文で刻まれている。
    望岳賦の碑
    象山31歳の作。富士山の雄大で気高い姿をたたえ、自分の抱負や大志を託した詩文。
    桜賦の碑
    50歳の蟄居中の作品。山陰に静かに咲く桜の花を自分にたとえ、ひそかに勤皇の志を訴えている。
    象山生誕地の碑
    一学の長男として誕生。約300坪で、南側に表門、西に裏門、屋敷内には住宅・学問所・道場があり、裏の竹薮には火薬製造所があった。現在県の史跡。

    象山記念館

     象山没後100周年の昭和39(1964)年に、地元有志によって建てられた2階建てコンクリートの建物で、象山神社の近くに、象山の遺墨・遺品などを展示し開館した。
     館内は、一階に遺墨・絵・洋書・科学関係の遺品など、二階に象山関係のビデオ映写室・文書類・物品などと松下幸之助・青木神木両氏から寄贈された象山の木像が展示されている。
     著名なものとしては、軸物では桜賦・望岳賦ほかの詩文・和歌など数十点、洋書ではオランダ語の『ショメール百科辞典(16冊)』など。科学器具としてはダニエル電池・電気治療器・地震計・望遠鏡・自製の写真機で撮影したといわれる象山自身および家族の写真などがある。勝海舟が自費を投じて発刊した、『省愆録』の版木も見ることができる。
     象山が日本で最初に電信実験を行ったことを記念して、松代藩の鐘楼わきに設けられていたNTT「松代通信資料館」が平成9年にこの記念館に併設され、古い電信・電話機器などが展示されている。

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