歴史を伝える松代の寺院
寺院一覧
松代町には寺が多い。しかもその寺々ではそれぞれに昔からの歴史と、その時代によった各方面とのゆかりを持っている。時代に応じた仏像や、建築物や、寺宝や、文書など、それにドラマチックな伝説、松代の歴史の証拠となるものを内に秘めて、静かなたたずまいを見せているのが松代の寺である。 平安時代の仏像を何体も持ち続けてきた寺、いくつかの困難を乗り越えて伝えてきた、その陰には仏教への信仰に支えられた名もない多くの人々の力があったに違いない。このことは平安の昔にこの地方で仏教文化の開花があったことを物語っているし、その時代以前の伝説が残っていることにも注目したい。 次にあるのは鎌倉新興仏教の教祖たちにかかわりのある寺である。佐渡へ流された親鸞・日蓮などが信州かその近国を通ったと考えられ、その道すがらの縁、その弟子たちとのかかわり、土地の人々の帰依などさまざまな形で寺が創建されている。
そして室町から戦国時代を迎えると、この地方の武将たちが戦勝を祈願するために、仏たちを信仰し寺の建立をしている。またこの土地を領有した領主の菩提寺もある。乱れた世情の中にいくらかでも安心を得たいという人々の願いの現れであろうか。
江戸時代になり松代が城下町になると城主に関係する寺が造られる。ことに真田氏が来てからは真田氏にゆかりの寺が多く建てられている。上田小県からの縁で結ばれた寺、真田氏やその縁類によって新しく造られた寺、また今まであった寺も新城主に進んで縁を求めている。
最後に忘れてはならないのが消えていった寺だ。災害・兵火・政治権力などさまざまな理由があったと思われるが、その堂舎を失い墓地だけが残ったり、観音堂だけが残ったり、跡地が畑になっていたりしている。江戸時代に盛んだった修験道の山伏寺にいたってはまったく現存していない。廃寺は昭和になっても続いている。釈尊の教えの「無常」を目の当たりにする思いである。
- 真田山長国寺(曹洞宗)
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長国寺は江戸時代の藩主、真田家の菩提寺として栄えた名刹。その源は戦国時代に真田家の本拠地であった真田村(現在小県郡真田町)に真田山長谷寺として残っている。真田信之が元和8(1622)年に松代移封と共に寺の名も長国寺と改め、この松代に建立された。
慶安4(1651)年、幕府より朱印地として百石、真田家より黒印地として2百石の領地が与えられ、信州の曹洞宗寺院を管理統括し、その上禅僧の修業道場でもあった。広大な敷地に七堂伽藍が立ち並んでいたが、享保2(1717)年の大火で全焼。寛保2(1742)年の大洪水で本堂が大破する被害にあったが、文化7(1810)年復元した。しかし明治5(1871)年に本堂から出火し、寺宝・経巻・記録文書などほとんどを焼いてしまった。現在の本堂は明治19(1886)年に建てられた。庫裏は当時廃校になっていた旧文武学校の槍術所を移築されていたが、文武学校の完全復元事業のため返還され、新しい庫裏が平成9(1997)年に建設された。
このように何回もの災害にあったが、霊屋は離れた場所にあったため、5棟の霊屋が残り、うち2棟は現在もそのままの姿で残っている。
本堂の裏 (東側)塀に囲まれ、並んでいて向かって左側(北側)が松代初代藩主真田信之の霊屋。入母屋造りで正面に千鳥破風、向拝には軒唐破風をつけた、国の重要文化財に指定されている見事な建築である。万治3(1660)年の建立。
右側に4代信弘の霊屋がある。方三間の宝形造り。簡素ではあるが装飾もあり、向拝が付く。県宝に指定されており元文元(1736)年建立。
本堂の裏に続いて建てられているのが開山堂。もとは3代幸道の霊屋として造られたが、明治19年の本堂再建の際に移築されて開山堂となった。方三間の宝形造り、回縁と前面の向拝は移築のとき撤去。県宝に指定されている。
このほか2代信政の霊屋は昭和27年に清野の林正寺へ、その本堂として移築。幸道の母松寿院の霊屋は御安町の孝養寺本堂へ移築後、明治24(1891)年に焼失した。
長国寺にはこのほかにも「放光殿」「雲堂」などが並び、禅僧の道場だった名残をとどめている。霊屋のそばには真田家歴代の藩主や家族の墓石の並ぶ墓地があり、霊屋と共に拝観できる。
また、本堂北側の墓地にはかつての松代藩の家臣たちの墓が多く、宝暦年間に松代藩家老勝手係として窮乏した藩財政を回復し、その事跡を書いた『日暮硯』は後の人々にも影響を与えた、恩田木工の墓(市指定史跡)がある。また囲碁の名人関山仙太夫・早撃ち銃考案の片井京助・明治維新に活躍した真田志摩・長谷川昭道などの墓もあり、近代になってはエノキダケの培養に成功し、後の産業化にも力を尽くした生物学教師長谷川五作の墓もある。本堂に向かう参道には長谷川五作の胸像も立ててある。
寺宝としては古い文献・書画等が残されているが、中でも江戸時代の初期に生き生きとした風俗画を描いた岩佐又兵衛の『堀江物語』(終結部分)があり注目される。 - 送経山西念寺(浄土宗)
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西念寺ははじめ西応寺といい、正平20(1365)年、海津城の大手門南の辺りに建立されていたが、慶長5(1600)年に現在地に寺領15石を与えられて移された浄土宗の寺である。
慶長8(1603)年には徳川家康の6男松平忠輝(1592~1683)が松代城主になったが、このとき忠輝を補佐したのが花井遠江守吉成である。この吉成が当寺を再興したので、中興開基とされている。
忠輝が越後高田城に移った後も、吉成は海津城代として、約10年間に北国街道の改修・伝馬宿の設置・裾花川のはんらんを防ぎ、川中島に用水路を引くなどこの地方の開発に大きく貢献した。吉成の墓は西念寺墓地にあり、江戸時代初期に建立されたと思われる宝篋印塔で市指定の文化財となっている。
また松代宿の問屋で、町年寄と検断をも勤めていた杭全家の墓地があり、寺への入り口の右手には江戸時代末期に江戸相撲で活躍した、東寺尾出身の「君が嶽」の供養塔もある。 - 芳谷山梅翁院(曹洞宗)
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曹洞宗長国寺の末寺で、開基は初代信之の側室、右京である。寺の名もその戒名から名づけられた。右京は信之が柴の隠居所で、93歳で没するまで付き添い、信之の死後はてい髪、京都の尼寺で魚濫観音を信心し、信之の冥福を念じながら寛文11(1671)年に没した。
寺の本堂に向かって右手に魚濫観音祈願殿があり、美しい女性の姿をした観音菩薩が鯉の上に立っておられる。
右京の墓は本堂左手の小さな覆い屋の中にある。 - 皓月山大英寺(浄土宗)
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初代信之の正室・小松姫の菩提を弔う寺である。小松姫は本多忠勝の娘で、徳川家康の養女として信之に嫁いだといわれている。元和6(1620)年に若くして没したので、信之は小松姫のための寺を上田に造りはじめたが、元和8年に松代へ移封となった。そこで、松代にあった前任の酒井氏の菩提寺であった大徳寺の後へ小松姫を弔う大英寺を造った。小松姫(大蓮院)の霊屋だけは新しく建立した。これが現在の本堂である。寛永元(1624)年の完成で松代に残る木造建築の最古のものである。
間口5間半・奥行5間は本堂としては小さいが、真田家の霊屋としては最大の大きさである。入母屋造り、桟瓦葺き平入りで周縁を回してあった。柱や組物には極彩色が施され、鏡天井には三村晴山の絵などがあり、豪華で県宝に指定されている。(表門・36歌仙図も共に)
この寺には小松姫の遺品が多く残されており貴重である。ことに安土桃山時代の狩野永徳が描いた『鴻門会の図 』は見事な大幅である。
また幕府から百石の朱印地を認められ、「三つ葉葵の紋」を付けることが許されていた。 - 寒松山大林寺(曹洞宗)
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寺伝によると天正年間(1573~1592)に真田昌幸が、その妻寒松院の発願によって上田城外の房山に大輪寺という寺を建立した。寒松院は没後この寺に葬られている。やがて、長男信之が松代に移封されたので、信之は上田の大輪寺は残したまま、母寒松院の遺骸を松代に移し、一寺を建立したのが現在の大林寺である。だから、上田の大輪寺にも寒松院の墓が残り、松代の大林寺にも本堂の裏に墓が建立されている。
藩祖信之の母の寺ということで真田家から厚遇され、幕府から70石の朱印地を受けている。また参道の右手にある石碑に刻まれているとおり、「白水流れの大林寺」といわれ、大勢の雲水がいて食事の米を研いだ水がたくさん流れ出すほど栄えていた時代があったという。8代幸貫もたびたび訪れたようで遺品が残されている。
参道の左手には松代藩士小県衆の筆頭矢沢家と沼田衆の筆頭鎌原家の墓地が同じような広さで並んでいるのも面白い。また、本堂の左手の墓地には赤穂浪士大石内蔵助の姉が嫁いだという岩崎家の墓もある。 - 平林山本誓寺(真宗大谷派)
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寺伝によると建保5(1217)年、親鸞聖人が倉科の自證院を再興して本誓寺とあらため、弟子の是信坊を開基とした古寺である。本誓寺が倉科村から現在地へ移ったのは松平忠輝の時代の慶長19(1614)年である。
本尊は親鸞聖人作『瀬踏みの阿弥陀』と呼ばれる秘仏で正月3日間だけ拝観できる。古くは寺域も広く諸堂や塔頭が並んでいたが、度重なる火災などで寺域も狭くなった。寺宝も多く、佐久間象山に関係したものなど見るべきものが多い。 - 功徳山願行寺(浄土宗)
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天文年間(1532~1555)に海野幸義が祖先の菩提を弔うため小県郡海野に建立し、後上田に移った。真田信之が松代へ転封となったとき道山和尚も召し連れられ現在地に同じ名前の願行寺を建立した。
創建当時は立派な堂が並んでいたが、数度の火災により今の姿になった。信之の近臣・伊木彦六が信之の死後、当寺で出家して信西と称し、菩薩堂で信之の遺骨(分骨)・位牌などを弔ったといわれ、現在も本堂で受け継がれている。 - 久龍山蓮乗寺(日蓮宗)
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開祖の久龍源吾は文永8(1271)年、日蓮上人が鎌倉から佐渡へ流されたときも、ゆるされて帰るときも自分の館に泊めたという縁で上人に深く帰依し、自分の館をそのまま日蓮宗の寺にしたのがこの寺である。
はじめは久龍山蓮乗院海津寺といっていたが、海津城が築城されるとき現在地に移転して蓮乗寺とあらためた。
山門を入ってすぐ左手に新しくできた「摩尼殿」がある。ここには日蓮宗の守護神「七面大明神」(七面大菩薩)がまつられている。身延山の裏七面山から勧請したので身の丈35センチメートルほどの美しい天女像である。毎年8月に縁日があり、地元の人たちには「七面さん」と親しまれ、大勢の人々が参詣する松代の夏の風物詩でもある。
参道を本堂に向かって進み、右側に佐久間象山とその子恪次郎の墓が有志の手によって立てられている。もともと佐久間家の菩提寺なので、象山の父神渓の墓もあり、恩田杢に続いて財政建て直しに力を尽くした望月冶部左衛門、菅平開発の功労者・加藤丹後守、『富岡日記』で知られる和田英の墓などもある。 - 高安山龍泉寺(曹洞宗)
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この寺は高坂弾正忠昌が海津城にいたとき、亡母の菩提を弔うために一庵を建てたのが始まりと言われ、寛文8(1668)年祢津八郎衛門直次がこの地に移して寺とした。直次の戒名から「高安山」という。現在の本堂は明治24(1891)年の火災の後に建立された。
山門を入ってすぐ「勝軍地蔵」があり、武士の信仰が厚かったといわれる。寺宝には大きな『閻魔大王図』(明治27年、山口雪嶺作)があり、毎年1月166日が縁日で一般の参拝がゆるされる。 - 直得山大信寺(浄土宗)
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紙屋町の西端、神田川の岸にある。北朝の年号で貞治元(1362)年の創建といわれる。地蔵堂の本尊は天文年間(1532~1554)にこの寺の住職鑑貞和尚が夢のお告げで授かったお地蔵さんで、子育てのご利益があった。また雨乞いの地蔵もあるし、かわいがっていた猿を葬ったという「猿の墓」もめずらしい。
子育て地蔵の縁日は「おかんてんさん」といい、参詣者でにぎわう。 - 象山恵明寺(黄檗宗)
- 神田川の左岸で象山のふもとにある。延宝5(1677)年に3代幸道が開基し中国の僧・木庵禅師によって開山された。本堂は土間のつくりで中国風。山門をくぐると左手に幸道の妻豊姫の霊屋と墓がある。豊姫は四国の宇和島からアンズの木を持ってきたという伝説がある。
- 正眼山法泉寺(曹洞宗)
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象山の続きの山懐に張り付いたように建てられた寺で、石垣を積み上げたところは城かと思わせる。永禄7(1564)年に清野氏の開基で、永禄4年の川中島の戦いの後まもなくできた寺だ。
本堂は安永2(1773)年の再建で、春はつつじ、秋はもみじの名所でもある。
鈴木右近が真田信之に殉死した場所であり、その墓も墓地にある。墓地の最上段には開基した清野氏の墓も並んでいる。明治時代日本で初めての民営製糸場「六工社」を造った大里忠一郎の墓もある。 - 金剛樹山開善寺(真言宗)
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白鳥神社のある舞鶴山のふもとにある。もとは小県郡海野にある海善寺である。真田信之が元和8(1622)年に松代移封のとき、住職尊海をともない開善寺を建立した。同時に海野から勧請した白鳥神社の別当とした。
現在の本堂は慶安3(1650)年の再建で、「戌の満水」といわれた寛保2(1742)年の大洪水には5代信安がここへ避難した。
寺の南の小高いところに経堂がある。万治3(1660)年に真田信之の次女見樹院によって建立されたもので、茅葺方形造り。県宝に指定されていて、山の中腹に調和した姿を見せている。中にはお経を入れるための八角の輪蔵があり、『大蔵経(天海版一切経)』を納めている。輪蔵としては長野県で最も古いものである。
春はこの経堂の周りに、桜が咲き乱れて美しい。 - 龍燈山清水寺(真言宗)
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西条地区を南へさかのぼった、谷間の六供部落に清水寺がある。昔は現在地の南西、十二原と言うところにあったが、何回もの火災にあい、今のところへ移ったと伝えられる。
本堂は耐震耐火の建築で中の仏像を守っている。仏像は藤原時代初期の古いもので、木造仏数体を安置している。「木造千手観音菩薩立像」はこの寺の本尊。平安時代初期の一木つくりの手法を用いた県内木造仏のなかでも最古最優秀の古仏である。「木造観音菩薩立像」「木造地蔵菩薩立像」と共に国の重要文化財に指定されている。このほかにも、「木造薬師如来立像(県宝)」「木造毘沙門天像(市指定文化財)」など数体の仏像があり、古仏の宝庫である。
本堂に向かって左手に不動堂がある。寺の西側、山の中にあった、「滝ノ沢の不動さん」である。昔の不動堂の跡まではだいぶ山を登るが、今でも磨崖仏や不動堂の礎石が残っている。
(本堂は施錠されている、拝観には事前にお寺の許可が必要である。) - 関谷山西楽寺(浄土宗)
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清水寺の南の地続きに西楽寺がある。開基は西条隼人正尚昭で、戦国時代の永録年間(1558~1570)に現在地に創建したと伝えられている。江戸時代の正保年間(1644~1648)に火災にあったが、真田信之が再建した。現在の本堂は明治28年の火災で焼失した後に再建されたものである。本堂内の格天井には花の絵があり美しい。
(信之の3男・真田隼人正信重がこの土地を愛し、深く寺に帰依していたので没後慶安元(1648)年、ここに信重の霊屋が建てられた。中には木造阿弥陀如来立像(市指定文化財)を本尊に信重夫妻の位牌が安置されている。この霊屋は昭和46(1971)年に国の重要文化財に指定され、平成9(1997)年から平成12年3月にかけて半解体修理工事が行われた。屋根は創建当時の?葺き、中は極彩色に復元され、小高い丘のように見える台地の上に昔の姿を見せている。
霊屋の中は、春と秋に日を決めて拝観を許されるので、拝観のためには、事前にお寺へ拝観日を確かめたい。 - 龍潭山明徳寺(曹洞宗)
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長野市立豊栄小学校の裏に杉並木の続く参道がある。六地蔵の前を進むと石段の上に立派な二層の仁王門が見える。これが明徳寺の山門で、参道はさらに本堂へと続いている。ところがこの参道は本堂の正面には向かわず、やや左側に寄った入り口に続いている。
創建は南北朝時代の終わり明徳元(1390)年とされ、戦国時代の天文年間(1532~1554)に武田の家臣で、海津城の城代であった高坂弾正忠昌信が深く帰依して、諸堂を修理再建したと伝えられる。境内中庭の左手には昌信の墓もある。「明徳寺文書」は長野市の指定文化財である。
左手奥のお堂には弥勒菩薩が安置されている。この弥勒菩薩には「小僧に姿を変えて、町の酒屋へ酒を買いにいった」という伝説があり、ほほえましい仏様である。本堂の裏手にはかえる合戦で知られる池があり、長野市の天然記念物に指定されている。江戸時代には幕府から朱印20石の寄進を受けていた。 - 観音山善徳寺(浄土宗)
- 寺伝によると室町時代の嘉吉元(1441)年、中川善仲が自分の家に堂を造りこれに観音菩薩を安置したのがはじまりと伝えられる。弟の善徳が後をついで現在地に寺を建立した。江戸時代になって寛永元(1624)年に浄土宗の寺として大譽と言う僧が開山した。現在の本堂は文化4(1807)年の建立で、観音堂と共に白壁が映えて美しい。毎年ツツジが裏山を彩るころ、観音講中による縁日が行われる。
- 弥陀山東光寺(真言宗)
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仁王門をくぐって石段を上ると本堂である。阿弥陀如来が本尊、愛染明王・不動明王が脇侍で、寺の成り立ちは古く平安時代の後期ともいわれている。脇坊が三舎ある寺で、武田信玄が海津城を築く際に城の祈願寺とした。慶長13(1608)年、松平忠輝が鍛冶町の諏訪社の横に堂塔を建立し寺を移して練光寺と名前を変えて諏訪社の別当寺にしたが、明治24(1891)年の大火で全焼し廃寺となった。
東光寺には戦国時代の文書などがあり、「東光寺文書」として長野市の文化財に指定されている。 - 尼巌山浄福寺(曹洞宗)
- 東条地区では松代田町に最も近く、長国寺と蛭川をへだてた東岸にある。尼巌山を背景に本堂の瓦屋根が美しい。古くはもっと山際の長礼地区にあったといわれ、文明3(1471)年の創建。文禄元(1592)年に現在地に移り、上杉の部将で海津城主になった須田満親が開基した。墓地には満親の墓と言われる五輪塔があり、豪商八田家の墓もある。
- 慧日山長明寺(浄土宗)
- 東寺尾の入り口に長明寺がある。蛭川を渡る参道の橋の向こうに松代でも一,二の雄大な楼門がそびえている。訪れてみたい文化財のひとつだ。古くは現在の千曲市屋代にあり、篠ノ井杵淵に移り、文禄年中(1592~1596)にここへ移った。江戸幕府の朱印寺で寺領14石5斗であった。楼門の上層には文殊菩薩と四天王が安置されている。墓地に寺尾氏の墓と言われる石塔もある。
- 杵淵山福徳寺(真言宗)
- 大変古い歴史を持つ。はじめは篠ノ井杵渕に建てられ、弘法大師の伝説を持った寺だが、永禄2(1559)年に武田信玄によりこの地に移された。本堂に向かって右手に護摩堂があり、薬師三尊と不動明王が安置されている。この不動明王には火炎の光背がなく、光背があると護摩堂などが火に包まれたように見えるところから、取り外したという伝説がある。
- 真田林大鋒寺(曹洞宗)
- 相澤山西法寺(浄土真宗)
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西寺尾のほぼ中央にある。古くは寺尾園西法寺という真言宗の寺があったといわれ、源頼朝の家臣であった相沢弥五郎が親鸞の弟子となり、それから7代目の西勝という僧がきて真言宗を浄土真宗に改めた。室町時代の永享10(1438)年ころという。珍しい鐘楼門がある。
また現在の本堂は合戦の兵火で焼かれたのを、武田信玄の本陣を移転して造ったという伝説もあり武田氏と関係が深かった。 - 池田山浄真寺(浄土真宗)
- きれいに整理された寺である。寺伝によると平安時代の終わりごろ、武士であり歌もたしなんだ源頼政の子孫である池田刑部重綱が親鸞聖人の弟子になった。浄真と言う法名ではじめは下氷鉋に草庵を建てたが、その後川中島合戦の兵火で焼かれてここに移り、現在の浄真寺となった。本堂内にある狩野派の絵師芳暁斎の描いた襖絵は見事である。
- 松操山典厩寺
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千曲川を隔てた左岸の、篠ノ井杵淵に典厩寺がある。以前は瑠璃光山鶴巣寺という寺で薬師如来をまつっていたが、永禄4(1561)年の川中島の戦いで戦死した武田信玄の弟「左馬之助信繁」を葬って典厩寺となった。「左馬之助」は唐の官名「典厩」に相当することがこの寺名となった理由という。本堂の左手に自然石の墓もあり、川中島の戦での戦死者の弔魂碑もある。
本堂の前には閻魔堂がある。川中島の戦いから300年を記念して、万延元(1860)年から元治元(1864)年にかけて造られた。大きさが2丈(約6m)もあり、東洋一といわれる閻魔大王が安置されている。 - 真光山林正寺(浄土宗)
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森村興正寺の末寺で、戦国時代の天文19(1550)年に創建された。その後はいろいろな出来事で変遷を重ねていたが、昭和27(1952)年、真田氏の菩提寺である。長国寺から2代信政の霊屋を移築して現在の本堂となった。この建物は信政が明暦4(1658)年に没し、同年に父信之も没して、その2年後に信之の霊屋と同時に建てられた。様式もほぼ同じ入母屋造りで、向拝の屋根は唐破風に造られている。中は極彩色で、彫刻が施されており、三十六歌仙の額が上げられ、傷みの進んでいるのは残念だが文化財である。本堂と表門は県宝に指定されている。
境内には女優松井須磨子直筆の「カチューシャの唄」を刻んだ演劇碑があり、庫裏の中には記念室もある。 - 高源寺観音堂
- 江戸時代まで高源寺があったが明治に廃寺となり、現在は観音堂だけが残っている。
- 信濃三十三番観音札所
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観世音菩薩は多くの人々から信仰され、親しまれてきた菩薩である。どんな人々でも救うために、色々な形に「変化」して、救済してくれるという信仰がある。観音三十三身といわれ、33の形に変身して誰でもどんなところにいても救ってもらえるという。
これにちなんで、33箇所の観音霊場を巡礼して、その利益にあずかろうとする風習が近畿地方ではじまり、盛んになったのが平安時代の終わり頃だそうだ。これが西国三十三番札所であり、のちに、東国でも坂東(関東)三十三札所・秩父三十四札所と広がっていった。
信濃三十三番札所はいつ頃できたのかはっきりしないが、記録に残っている最も古い例では寛文12(1672)年と記録された、ご詠歌額が残っており、この頃から始まったのではないかといわれている。長野市に8箇所の札所があり、そのなかで松代には3箇所の札所が残されている。今でもご朱印をいただいて回る人々がいる。 - 四番札所 大里山風雲庵
- 国道403号線に「信濃国四番大里山風雲寺 これより南三丁」とある石柱が立っている。武田信玄が戦勝祈願のため大里の地に建立して、寺地を寄進したといわれる。元禄5(1692)年に現在地に移転した。今も観音を納めた黒い漆塗りの厨子に武田菱の紋が見える。お堂の石段の両側には石仏などおよそ2、30体並んでいる。
- 七番札所 虫歌山桑台院
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地蔵峠への道を登っていくと、右手の山の中腹にこんもりとした森が見える。参道の入り口に「信濃国三十三札所第七番霊場 史蹟虫歌山千手観世音 桑台院」と刻んだ石柱がある。
参道を入り朱塗りの仁王門をくぐると、正面に舞台造りの観音堂がある。正面に掲げられた「虫歌山」の雄壮な文字の額は江戸時代末の長国寺住職千丈実巌の筆。千手観音は奈良時代聖武天皇のころといわれる行基にまつわる伝説や、蚕についての伝説もある古仏である。 - 十一番札所 仏智山不動院明真寺 清滝観音堂
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清滝観音堂の参道は松代の町から東の奇妙山の方へ登っている。参道の中ほどに真言宗明真寺があるり、観音堂の別当寺である。観音堂はさらに200メートルほど登ると木立の中にひっそりと建っている。ここからは松代の町や千曲川や妻女山などが眺められる。春は杏の花が満開で美しくにぎやかな眺めになる。
本尊の千手観音は秘仏だが、拝殿には前立て本尊が安置してある。
観音堂をさらに登ると、清滝が流れ落ちる滝の下には阿弥陀堂があり、俳句や狂歌の奉納額が掲げられている。
長国寺の北側には樟原山真勝寺がある。真宗本願寺派の寺で、学習院教授を勤めた飯島忠夫の墓がある。
本誓寺の向かい側に白鳥山證蓮寺がある。親鸞聖人の弟子西仏坊の子が開いた寺で、真田家にも関係あり寺宝も残されている。
龍泉寺から南へ少しはなれたところに報恩山孝養寺がある。境内には「おしゅん地蔵」という石仏がある。
恵明寺の南にやや離れて照光山乾徳寺(曹洞宗)があるが4代信弘のために建てられた。真田家の分家である真田勘解由家の墓地や8代幸貫の建てた石塔もある。
明真寺は坂上田村麻呂の伝説を持つ、平安時代からの古い寺である。
実相院は曹洞宗の寺で、大林寺の住職の隠居寺として開基した。真田家との関係が深かったが、火災にあって規模を小さくした。大日堂は皆神山の北の登り口にあり、そばに「松井の泉」がある。
寺尾地区
真如山萬法寺(浄土真宗本願寺派)は正元元(1259)年、親鸞聖人の弟子による建立と伝えられ、聖徳太子をまつる太子堂がある。
寺尾地区、柴の部落に大鋒寺がある。昔は旧道からの長い参道が続いていた。ここは松代藩初代藩主真田信之の隠居所であったが、信之が万治元(1658)年10月17日、93歳で没すると、そこを寺にして信之の法号「大鋒院殿徹巌一當大居士」から大鋒寺と名づけられた。本堂・霊屋・衆寮は開創以来の建物である。
松代の中央部からちょっと離れるが、足を延ばしてみたい。『同鑵子』という不思議なものも伝えられている。
本堂の左側に信之の霊屋がある。隠居所の古材を利用したといわれることがうなづけるような質素な造りである。平成12年から13年にかけて解体修理が行われ、白壁や屋根にすっきりした落ち着きを見せている。中には阿弥陀三尊のほか信之と八代幸貫の木像などが安置されている。
長野市の指定文化財。
寺の南側の墓域には信之の墓もある。扉のついた門と塀に囲まれた墓地で、殉死した家臣鈴木右近の墓も寄りそうように立っている。墓は市指定の史跡である。
大瀧山禅福寺は天文3(1534)年に大室氏の出身で宗察という僧が開山ししたものだが、その後荒れていた寺を信之の次女見樹院が中興開基となってよみがえった。
岩居堂観音・永福寺、この近くからは昔たくさんの五輪の塔が出たし、応永13(1406)年と刻まれた木像もあった。(市博物館蔵)
西寺尾地区
清龍山教覚寺は浄土真宗で「てつぎでら」と呼ばれる西法寺と檀家の家々を結び仏事などを取り次ぐ役目を持っていた。
清野地区
岩野地区には「清水庵の地蔵堂」や「戌の満水」の犠牲者を弔う供養塔もあり、村人たちの信仰の場所になっている。