海津城・花ノ丸焼失
今回は花の丸御殿の火事について、以下原文のまま紹介します。(句読点・括弧内の註については勝手に加筆しました)
明治六年九月五日夜十時、松代海津城内花の丸城主ノ居住出火焼失ス。昨年九月松代藩ヨリ長野県権令立木兼善へ城地建物財産ヲ引渡シ、借金マテ政府ノ附胆(負担)トス。新御殿幸教公ノ隠居所ハ、城地外ニアル故、是レハ私物トシテ残ス、今九月六日城中建物ヲ競売スル事ニ成タル前夜ナリ。花ノ丸建物ノ内ニ、留守居同様ニ三戸借り諸居住シ居タカ、火事ト云テ出テミレバ、帯刀シタル武士三人居リタル由ニテ、確ニ家人中ノ放火ナリト。家具ハ少シ取出シタルモ、火防スル人モナク焼キ尽シタリ。取出シタル家具ハ借家人ニアタイ(与え)、長野縣ニテ人夫ヲ連レ来リ、残ノ建物悉取崩タリ。松代役人ニテ、乾ノ大櫓カ大門ニテモ、一棟ヲ記念ノ為ニ買請残シ度願タルモ、出火ノ原因ヨリ塵一葉残ス事出来ヌト。花の丸ノ西端ニ信玄茶屋ト云アリ。是ハ焼残リ居タカ。是レ、武田信玄ノ茶屋ニテ、柱長押天井竿垂木ニ至ルマテ松ノ皮付ナリ。屋根ハ赤茅葺ニテ茶屋四畳半・水屋三畳・二方縁ニ丸窓付是レヲ心〇(1字解読不能)商人杣人ノ挽小屋ニナシ、後チ取破シタリ。
花の丸については、嘉永6(1853)年5月に全焼し、再建後13年目の明治6年10月に再度焼失。その日時については19日夜10時(一部には9日説も)と思われますが9月5日は「見聞録」筆者の完全な誤り。
問題の出火原因については、「帯刀シタル武士三人居リタル由ニテ、確ニ家人中ノ放火ナリト」など放火と断定しています。
これについて、当時の県参事・楢崎寛直が明治新政府に送った報告書によりますと「住居西北の方より出火、松代住貫属近傍町村民がかけつけ消防に当ったが火が蔓延し焼失した。取りあえず官員を派遣して調べさせたが、人気のないところで出火の事由は一切不明」(松代―歴史と文化)としています。
また、「出火ノ原因ヨリ塵一葉残ス事出来ヌ」と全てを取り壊したと書き残してしていますが、「見聞録」の内容が事実ならば、「信玄茶屋」は焼け残ったのです。貴重な遺構となる赤茅葺の茶屋だけでも今に伝えて欲しかったと思います。