諸大名ノ奥方話
前回は皇女が中山道を通過した「和宮御下向について」でしたが、今回は実説見聞録の4回目。幕末の松代藩真田家の奥方についての話題です。
文久2(1862)年閏8月参勤交代制が緩められ、江戸にいた妻子も国許に帰ることが自由になりました。このため、松代藩でも同年11月2日に晴姫(9代藩主幸教夫人、讃岐高松藩・松平讃岐守頼恕女 真晴院)が早くも領国入りしました。続いて文久3(1863)年3月26日には貞松院(8代幸貫・子息幸良夫人 大和郡山藩・柳沢甲斐守保泰女)そして幸教生母 順操院(仏語の権威・村上英俊妹)が相次いで松代へ帰っています。
領国松代で殿様の奥方を初めて見た地元の人々は、都会風の貴婦人には、さぞ驚いたことでしょう。以下「実説見聞録」の一節、括弧内は筆者加筆。
徳川ノ大名奥方人質政ヲ廃シ皆々国ヘ帰リタル時ノ一ツ話。松代ニテモ、前代ノ奥方―大和国ヨリ柳沢家ヨリ嫁入タル定正院(貞松院)、当主ノ奥方―讃岐国高松松平家ヨリ嫁ス 当主生ミノ母等国入シタテ、毎日物珍ラシク四方ヘ遊ヒニ出タリ。其風体ハ長キ笄、ふくれタル鬢、背ノイリニマテハイル長キ髱、大かたはづし髷-是ハ当地ニテモ見ル御殿髪ト云―化粧ハ江戸風ニテ首筋ヨリ耳下マテ真白ニ塗リ、顔ハ白粉ヲ塗リテ〇(1字解読不能)取リタルモノニテ、サナカラ面ヲ冠リタルカ如シ。尚、讃岐ヨリ御出ノ奥方ハ地質色黒故、一寸見タル老婦人カ面ヲ冠リテ御座候抔ト申マシタ。着衣ノ色ヤ形ハ私共少年ノ男故気カ付カス。
笄(こうがい)、鬢(びん)、髱(たぼ)、髷(まげ)など今では書く事は勿論読むことも出来ない漢字ばかりが並んでいます。
「着衣ノ色ヤ形ハ私共少年ノ男故気カ付カス」とありますが、見聞録筆者の観察力は素晴らしく、殿様夫人・真晴院は「地質色黒」だったとあります。
其頃ハ桑畑ト云物ナき故、城ノ裏門―吾妻門ト云、カブキ門ナリ-ヲ出レバ一同バタバタ飛出ル。我村前ニテ顕カニ見ヨル故、夫レ亦出タト云テ見物人出ル。同勢ハ女十五・六人、老人男二人付テ案(内)ス。何所ヲ目当ト云事ナケレハ、我前沖ヲアチラコチラ巡リ回テ、西ノ千曲川河原ニ出、河中ヘ石ヲ投テ笑ヘ狂(興)ス。タダワケモナク飛歩キシテハ帰ル事四・五日置キ位、今日東条、アスハ西条清野、ソノ次ハ雨宮ト。日は気億(記憶)ナシ。
奥方の外出には、付添いを含めて20人ほどを随えて、「四・五日置キ」だったことがわかります。
さて、この奥方ら一行が西寺尾地区を散策中、或る日、真晴院がトイレにいきたくなりました。さてどうしたのでしょう。次回です。
参考文献 松代4号(北村保 旧松代城南新御殿について)