戊辰戦争-2

慶應四年會津(戊辰)戦争 その2

 飯山戦争に勝利したのも束の間、松代をはじめとする信濃諸藩は、飯山で二手に分れ、いよいよ北越への出兵です。松代藩の総括隊長は家老職・河原左京(46)、―のち均 凱旋後、松代藩県の権大参事)、総括副隊長には小幡内膳。閏4月20日新潟・新井宿に集結した藩士は1,492人を数え、この時各兵士には「金襴御印」が下げ渡されたという。(長野市誌)
 さて、兵士らの姿・格好はどうだったのでしょう。「実説見聞録」8回目です。

兵士ノ出立(いでたち)ハ、隊長ハ黒紋付、小袖ノ袂ノ先ヲ上ヘ折返シ、肩□付テ筒袖ノ如クナシ、裾を折リ上、帯ヲシメ、股引、脚胖、草鞋、上ニ金襴ノ陣羽織ト云。出立兵士ハ絣木綿印半纏(しるしはんてん)、肩ヨリ袖口マテ赤ノ輪違ノ連続セル□印物ニ脚胖、草履バキ也。其当時デサイ(でさえ)異様ニ見受タリ。隊長ハ陣笠、中ニハウシロハチマキ、兵士三角形ノ陣笠。十月ノ凱旋ノ時ハ一様ニコロコク(意味不明)ト云、黒ノ毛織物ニテ、マントルト云 仕立ナリ。

 監軍岩村精四郎(22)―土佐藩士、のち新潟県判県事、佐賀県令―の指揮下に入った信濃諸藩は、芋坂・雪嶺の戦をへて、閏4月27日小千谷に到着。その時の模様を三番小隊に属して従軍した川中島四ツ屋村 飯嶋亀蔵の従軍記「北越出張日記覚」(以下亀蔵日記)は「小千谷宿陣屋江、我等組 壱番乗致し候 右陣屋ニ五月四日迄止宿」と誇らしげに記しています。その間、3日には岩村と長岡藩家老・河合継之助のいわゆる「小千谷談判」が決裂。長岡藩が決起したため、激しい長岡城攻防戦が8月末迄3ケ月わたって展開されることになりました。

長岡城ノ乗取亦取ラレテ、再ヒ乗取ヨリ、奥州熊倉ノ難戦等ニテ功ヲ立、九月ノ會津城攻ニハ、後陣ノ堅メト成。多ク戦ワス 松代ノ評バン宜ク赤蝮(あかまむし)ト云。是ハ赤ノ六文銭ヲ見テ名付タルモノ。

 長岡における戦闘がいかに過酷なものであったか。亀蔵日記は、「七月廿二日、亀崎村之十二三才之子供壱人、左之脇下被打抜候」。亀蔵さんは12歳をかしらに4人の子供を残しての従軍のため、哀れに感じたのでしょう。(飯島恒弘氏 日記覚訳本)また、「八月朔日、敵怪我人相尋候処、即死・手負等迄弐百人餘も御座候、尤道端・野畦等ニ死人之数不知候」(亀蔵日記)とその惨状を書き残しています。
 長岡城を再び奪還した松代藩兵らは、村松、五泉を経て、9月初めには、會津に攻め込む程の勢いでしたが、熊倉(現喜多方市)の戦いでは苦戦し、1日の犠牲者としては、最も多い13人が戦死しています。
 熊倉では、「松代藩が刀・鎗での肉弾相討つ壮烈な戦い振りをした事が今も語られております」(戦争記)喜多方市の光明寺には「官軍信州松代真田藩士」の墓があります。

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