戊辰戦争-3

慶應四年會津(戊辰)戦争 その3

 9月10日松代藩の司令金児忠兵衛は、ライフル砲二門並四斤半施條砲一門を率いて會津若松城下に入リ、12日、城の東南隅山上に砲塁を築き、薩州などの大砲と共に盛んに城内へ打込んで偉功を奏した。」(松代町史)司令の忠兵衛は、江川太郎左衛門について砲術を学び、当時国内有数の砲術家として評判が高かったという。熾烈な戦いは、9月21日ついに會津藩が降伏。24日には、若松城が開城され藩主・容保が降伏、會津戦争は終結しました。亀蔵日記には、「23日私儀會津城下へ罷越見物仕候」とあり、亀蔵さんは惨状の城下を見て廻るという貴重な体験をしたのです。
 この北越戦争に信州で最も多く出兵させた松代藩は、百姓ら民衆までも巻き込み、また多くの経済的負担を強いたのです。明治人が書いた記録・実説見聞録の9回目です。

松代藩ハ人数不足ト云テ、領分中ノ猟師ヤ神官マテ呼出シ、戦地ニ送リ御用金ト称シ百姓商人ヨリ強精的(強制的)ニ金円ヲ取立タリ。其手元ハ大分困難ナリ。此役ニ兵士以上ノ人ニテ戦死者五十五人、村々ヨリ集メタル武人足十人死ス。負傷者ハ此外ナリ。

 県史通史編によりますと、軍夫として参戦したのは「猟師鉄砲を持参の農民は400人、陣羽織・長刀の神主50人、白鉢巻・白襷・竹鎗・六尺棒の穢多400人」とあります。飯山から始まった北越戦争を通して、松代藩は多大の戦費と多くの犠牲者を出したのです。「大砲の弾薬5716発、小銃の弾薬93万5849発を使い、出兵総数3,271人、そのうち死者52人、負傷者83人を数えた。(長野市誌)死者のうち軍夫は10人という。
 ところで、「実説見聞録」筆者(未だ氏名不詳)家からも、初期の長岡攻防戦に小荷駄掛として養父が従軍しているのです。

私ノ養父モ戦場ニ行、六月当地洪水ノ為、其普請ノ為越後長岡ヨリ帰ル。小荷駄掛ニテ小千谷ニ滞在中、女子供ガ山ヘ毎日行テ茎二寸斗ノ丸葉ヲ摘ミ来ルヲ見ル。夫レハ何スルモノト尋シニ、是ハ、オマンマノ葉ニテ細ク切リ干シテ置、釜ノ中ヘ米ト共ニ入レ焚テ食スルト云。越後ハ魚ト米ノ国ナルニ、如此キヲ聞クニ驚キ入タルト云。下情ヲ察ス。

 半年間にわたって克明に記された松代藩兵卒の従軍記「亀蔵日記」は、結末は何の感慨もなく事実関係のみを一行で締めくっています。

「十月廿九日(現在12月12日)丹波島出立 一里 夕刻松代着仕候。」

参考文献 長野県史 長野市誌 松代町史 松代藩戊辰戦争記 北越出張日記覚 日記覚訳本 北越戦争手負討死覚 戊辰朝日山

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