Cグループの活動

Cグループ の活動は、 松代地区の史跡、文化財等の現状等を継続的に調査しています。 貴重な文化財等の現況を多くの方に知っていただき、その保存・伝承等に役立てばと思っています。 現在までに調査した箇所は、200箇所あまりです。   Cグループ2023年の研修は、長野県立歴史館の令和5年冬季企画展「和田英」を鑑賞する。 「和田英」、旧姓「横田英」は松代藩士横田数馬の娘で官営富岡製糸場へ工女として 就業した後、松代に帰還し日本初民間蒸気器械製糸工場「六工社」で後進の育成にあたった。 富岡製糸工場での日々を綴った伝習工女日記「富岡日記」の作者として有名な人物。 生家の旧横田家住宅は、松代の武家屋敷で国の重要文化財に指定されている。      

戊辰戦争と松代藩

対岸の明治元(1868)年は『戊辰』の年で鳥羽伏見の戦いに始まり、薩長等連合軍の東進、長岡城・会津若松城の攻防、五稜郭の戦いまで一連の戦いが続いた。薩長軍側につくことで藩論を統一した松代藩は、東山道先鋒総督の命によって2月30日、甲府城守衛のために出兵する。その後4月には長岡藩などを攻めるために19、20、21日の3隊に分かれて出発した。特に長岡城の攻撃は困難を極め、この戦いに従軍した飯島亀蔵の日記によれば、榎木峠方面からの攻撃が成功せず、作戦を信濃川の強行渡河に変えたと記されている。松代藩の損害も多かったようである。長岡から会津までの各地に「松代藩士の墓」とか「官軍松代藩戦死五人墓」などの墓標がある。松代藩兵は9月22日の会津若松城落城ころまで各地で転戦し、10月29日に松代に帰還した。以上の日付は飯島亀蔵の書いた日付であり、旧暦である。今の太陽暦に直すと12月の半ばに松代に着いたことになる。途中で大雪に悩まされたりしている。このときの戦死者52名を祭ったのが妻女山にある招魂社のはじめである。

妻女山地名考 由来2説

西条氏と国造

松代町西部・岩野地区と清野地区の境目に妻女山という、海に突き出した岬のような地形の低い山がある。 この山は、永禄4(1561)年9月の第四回目の川中島合戦の折に上杉謙信の本陣となった山である。 合戦のイメージとはほど遠い「妻女の山」と優しい趣をもって呼ばれるこの山の名称は、どのような経緯やいわれを秘めているのか。妻女山については、古くからさまざまな呼び名が付いていたようである。「長野県の地名」(平凡社)によると妻女山は、「西條山(土豪・西条氏の支配地の関係)である」としている。それに対して、「妻女山といい、会津比売(ひめ)を祀(まつ)ったため、信濃国造(くにのみやつこ)の妻に由来する」との見方もある。また、「松代町史」には「往古信濃国造が天神地祇を祀りたる所なれば、斎場山と書くべきと言う者、また山上に古墳多くして中に前方後円墳の一大古墳あり、山麓に信濃国造の妻女・会津比売神社あり、妻女を葬れるものなれば、妻女山と書くのが至当と論ずる者あり」とある。「千曲真砂」宝暦3(1753)年の国中駅行程の矢代より松代への中では、「道にさし出たる山あり、その昔川中島合戦の時、上杉謙信の本陣妻女山なり」とある。「信府統記」宝暦9(1759)年の埴科郡境記には、「妻女山は清野村・岩野村の辺より上る土口村の南東なり、この山の西の麓に妻女の宮という小さき祠(ほこら)あり故に言う」とある。そして「長野市誌」は、「妻女山(西条山、または赤坂山ともいう)」としている。 以上の記述などからこの山は、中世に清野氏の支族西条氏が支配した所なので西条山であるとする説、信濃国造の妻を祭ったために斎場山・妻女山であるとするものがあることが分かる。

供養塔立ち並ぶ「斎場」

妻女山はその名称を否定するもの、また赤坂山・西条山などの異名称も付けられ、呼び名はさまざまである。 明治7(1874)年、明治新政府の命により全国各村の詳しい実勢実態調査が「府県町村誌」にまとめられた。 雨宮古渡の項には「永禄四年上杉謙信、祭場山の陣より南降…」とある。隣接する土口村の記録斎場山の項には、「祭場山というが古誌にいう西条山は誤り、近俗作となる妻女山は尤(もっと)も非なり、...この山の山麓に岩野・清野両村あり、岩野は斎野、清野の古訓は須賀野(菅野)共に祭祀潔斎に因あり」と。また「祭場山は埴科郡領の斎場祭壇を設けて、郡中一般祭祀(さいし)したる所」とある。現在この山には、弘化4(1847)年の善光寺地震で罹災した2810人の「罹災横死者供養塔」(嘉永2年建立)、明治元(1868)年の戊辰戦争で戦死した人々の「松代藩戦没者招魂碑」がそびえている。立派な招魂社が鎮座し、その本殿を戦死者52人の碑が整然と取り囲むように並べられている。また、日清戦争以後の戦没者を祭る忠魂碑が建立されており、清野側の参道には多くの供養塔が立ち並び、一大斎場としての様相を今日も示している。妻女山は、会津比売(ひめ)を祭ったことにちなんだ名称だけでなく、斎場山であるともいわれた。それは文献からも死者を葬り、悼み、冥(めい)福を祈った山であり、神になった人への祭祀の山であったことが分かる。 (酒井千明)
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