松代騒動 その2

 明治3(1870)年11月25日、藩札と石代納について、嘆願しようと上山田村で立ち上がった百姓らは、途中の村々を吸収し松代城下馬喰町に着いた時には数百人に及んだという。明治維新期の私人の記録・実説見聞録11回目です。
  二手ニ分レ、森倉科ヨリ清野坂ヲ下ル、一ツハ川中島ヘ出テ人集メシテ松代出ル事トス。廿五日夜十二時頃、早ヤ木町ノ産物商法社ヘ火ヲ掛ケタル故、私モ出テ見タルニ、清野坂ハ山頂ヨリ麓マテ火ノ滝ノ如シ。是ハ暴徒カ森倉科ヨリ蚕ノ棚竹ヲ集メ大松明トナシ数百人ノ下ル事ナレ見モノナリ。
 「眞田・高野の首を渡せ。商法社の悪人を誅戮(罪あるものを殺す)せよ」(維新の信州人)といった激越な一揆勢の怒号や投石などの不穏行動が続き、この時、一揆勢がめざしたのは、藩札を発行した商法社と藩の強硬派であった権大参事 高野廣馬だったのでしょうか。
 廣馬とは旧松代藩士。明治3年松代藩権大参事、廃藩後司法省に出司し判事となる。正五位勲五等に任ぜられ民法編纂委員となる。明治41年6月80歳で没。
  又、加賀井村ニテハ、我村ハ高野廣馬氏ノ家宅アル故ニ焼打ニ束ルナランニ依、村前ヘ男子タル者ハ不残出テ、クイ止ヲ致サント出張リ居タルニ、二十人斗暴徒来タリ。是ハ皆羽織ヲ着シ居テ、中ニハタッツケヲ着シタルハ頭取ト見ユル。―タッツケトハ膝下ハ脚胖トナリ居―高野廣馬方ヘ案内セヨト云。一同案内ナシタルニ家財ハ残ス。暴徒モ手傳テ取出シ棚ノ品ハネコノ四角ミヲ四人ニテ持チテ品ヲカキ落シ外ヘ出ル。其手際宜シキ由、後手桶ニ水ヲ入タルヲ大勢ニテ家ノ回リニ並ヒテ後々ニ火ヲ掛ケあと火ヲ消テ行上タリト云。
 ついに翌日、藩知事眞田幸民の登場となったのです。「事態の容易ならぬを察し、眞田大参事を従え、城門を出でて柴町の大英寺に至りて一揆と会見」(松代町史)するのです。
  廿六日ニハ、松代町中ハ人ニテウマル。木町ノ丁子屋、幸蔵出店菊屋、萬屋、美濃屋、中町ノ甲子屋等ノ家財ヲ打破も火ハ掛ス。軌律(規律)ハ幾分立居ル様子。十時頃知事真田幸民氏ハ、馬上ニテ十人斗ノ供ヲ連、先ヘ願ノ者ハ大英寺ヘ来レト云。紙旗ヲ持セテ中町ヨリ木町ヲ通リ大英寺ニ至ル。本堂前ニ出、徒党ノ大衆ニ会ス。籾相場七表、金札ハ表記金円ニテ引替ル事ヲ約シ引取ル。徒党モ大半ハ引取タル様子ナリシカ。
 結果は、石代納は10両に付き7俵、藩札及び商法社手形は割引なし、即ち官札と等価交換するというのです。藩知事が自ら約束したのです。
  松代知事ヨリ廿六日、辻々ノ門ヘ願ノ趣、御相場七俵、金札ハ十二月五日ヨリ引替申事ノ書出タル。此張出ノ紙ヲ証固(証拠)ダト云テ争イ村ヘ持チ帰タル人多シ。
 百姓の要求がほぼ達成されたのですが「張出ノ紙ヲ証拠ダト云テ村ヘ持チ帰タル」など、百姓にとっては疑心暗鬼。騒動は一件落着とはいかないのです。次号です。
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