京都の戦争

元治元年 京都ノ戦争

 幕末の京の都は、尊王攘夷や公武合体を主張する派が入り乱れて不穏な状態にありました。特に、尊王攘夷を主張して、前の年に京を追われた長州藩は、その失地回復のために久坂玄端ら藩兵が、京都に向け迫っていました。明治維新まであと4年という元治元(1864)年のことです。
 このため、會津、桑名のほかに西南の諸藩など多くの公武合体派は、京都に兵を送り、過激派長州藩と一触即発の状態でした。この時の争いが、いわゆる禁門の変です。松代藩も、京都南門の警衛を命じられ、9代藩主・幸教が6月14日に多数の藩兵を率いて松代を出発しました。
 当時の庶民の記録・実説見聞録の6回目は、この禁門の変に参戦した臨時用夫の体験記録です。

元治元年七月十三日京都の戦争ハ松代藩ノ初陣ナリ。実地戦争ニ携リタル五明兼弥ノ話ニ依レバ、同人ハ松代藩ノ池田大蔵付ニテ、京都ニ出。六條通リノ佛光寺ニ本隊ヲ置、大内裏ノ南門堅メニ而陣ス。其目前ノ御花畑ト云所ニテ、會津勢ト長州勢トノ戦争アリ。砲玉ガ頭ノ上ヘ飛来スル故ニ、南門前ニハ居タタマラス紫震殿ノ床下ニ陣ス。然ルニ困難ナルハ便所ニ窮シ居所ノ床下ニテ便ス、其甚シキヲ知ル。亦朝食ヲ食シタルノミニテ、夜ニ入モ兵粮来ラス。困難知ルヘキノミ。尚亦本営ノ佛光寺ニテハ、戦争ニ出火ト云ニ驚キ、戦争ニ付物具足ニマゴツキタル人モ多クアル事ナレハ、南門堅メノ兵粮ヲ送ル手立モ知ラサル故、時後レル理ノ当然ナリ。此時京都ハ鴨川西ヨリ堀川、東ハ全部兵火ニテ焼ケル。松代本営ノ佛光寺モ焼失ナリ。此戦争時カ、鎧甲ノ着始ト着終ナリ。

 250年余も平和裡ニ過ごしてきた当時の百姓にとって、用夫を命ぜられたことは大変なことだったのでしょう。勿論「具足ニマゴツキタル人モ多ク」「鎧甲ノ着始ト着終ナリ」は当然のこととしても、現地でも「便所ニ窮シ」「夜ニ入モ兵粮来ラス」の状態で、藩兵らの混乱は相当だったと想像できます。
亦面白キハ、此時松代藩ハ南門ヲ堅メ紫震殿危シト見テ、大内裏全体ヲ守護シタル功ニヨリ天盃ヲ頂戴ナシ。国ヘ凱旋ノ時ハ天盃ヲ、白木ノ四人荷ノ輿ニ納メ江戸ノ赤坂奴ヲ雇、飾り鎗・先箱・長持その他身振り面白くネリ込タリ。
 「勤皇の為に盡せるものにして、之れが為に聖上に拝謁を許され辱なくも天盃を賜はった」(松代町史)とありますが、この京都出兵が果たして「国ヘ凱旋ノ時ハ」と記すほどの凱旋だったのだろうか。混乱の幕末は、第1・2次長州征討、そして大政奉還、更には戊辰戦争と本格的な動乱の時代に突入して行きますが、松代藩も否応なくこれらの戦乱に巻き込まれていくのです。

参考文献  松代町史(上巻) 長野市誌(歴史編) 長野県史(通史編)

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