山寺常山の旧邸と業績

山寺常山の旧邸と業績

山寺常山の旧邸と業績

1 調和・繊細兼備の長屋門


 長野電鉄河東線・象山口駅の東100メートルほどの所に、千曲川に注ぐ神田川の堤がある。その堤の小道を南に歩く。かん木に覆われた象山の急斜面が川のせせらぎに落ち込み、小道の左手のうっそうとした木々と相まって、わずかな木漏れ日の中に浮かび上がる静寂な空間をつくり出している。まさに京都の「哲学の道」に劣らぬ「思索の道」と呼ぶにふさわしい小道である。この小道は、松代藩主3代幸道・8代幸貫にあつく信仰され保護された竹山稲荷や恵明寺に至る。象山神社のある竹山町通り辺りは、松代町でも武家屋敷町の景色を最も良く残している所で、旧山寺常山邸もここにある。屋敷内には一面に大きな杉・梅・カシワ・竹などの屋敷林が生い茂り、昼でもなお暗い。生垣のすき間から見える広い庭には、雑草が所狭しとはびこり、南隅の大きな泉水池には神田川の清流が澄んだ響きを立てながら勢いよく流れ落ち、水面を覆う水芭蕉にもにた水草を揺り動かしている。寄せ棟造りらしい家屋とそれに付属している4畳半くらいの茶屋風の建物も、ともに歴史の風雪を慮(おもんぱか)るには余りある風情である。風聞にある、10代藩主幸民の厳父で伊予宇和島藩主・伊達宗城公の山寺常山顕彰碑らしいものが、庭の北側に建てられているのも垣間見ることができる。山寺常山邸の正面の長屋門は、松代町の観光パンフレットにも登場しているように、松代町では間口が最も広く、調和と繊細さとを兼ね備えた実に美しい長屋門である。竹山町通りに面し、邸前の道は長野市による「歴史の道」事業の一環として美しく整備されている。松代城下町の一つの特色を示す泉水路も見事に復元され、きれいな流れの中に往時をしのぶかのごとくニシキゴイがゆったりと泳いでいる。



2 藩政を支え改革に尺力

 山寺常山邸長屋門は両開き大扉を中心にして、左右に武者窓付きの同心部屋と思われる広い部屋があり、かわら屋根と土壁・壁部の下見張り・大扉の飾り金具類・門に続く長い土塀などが周囲の景色と相まって、城下町松代の持つ歴史へのロマンを限りなくかき立ててくれる。山寺常山(1807~1878)は、鎌原桐山・佐久間象山とともに、幕末の松代三山といわれ、藩政・学問・藩士教育などに多大な足跡を残した。 彼は文化4年に140石取りの中級武士の家に生まれ、幼名を久道、のちに信龍、通称は源大夫といい、号は常山ほかにも2、3名乗っていた。幼年のこるから学問を好み、理想家であったともいわれ、21歳での目付け役を皮切りに、寺社奉行・郡奉行などを勤め、8代幸貫9代幸教・10代幸民の3藩主に仕え、藩政に多大な貢献をした。
 特に、幸貫公が理想に燃え、急激な藩政改革を断行したために起きた藩内のあつれきや、財務窮乏などによる保守党と開明派の二派による激しい派閥争いの中で、佐久間象山とともに開明派の重鎮として改革に努力した。

 また、弘化4(1847)年の善光寺地震の折には、幸貫公の封内巡視に随行し、惨状調査、被災民救済、災空復旧に力を尺くし、幸教公が幕府海岸警備係を命ぜられたときには、藩主側役頭取として主君を助け国事に奔走している。
 明治3(1870)年、藩内一円に起きた午礼騒動の折には、事の解決のために中心的な役割を果たしている。学問は、儒学および漢詩を鎌原桐山に、兵学・経学は江戸で平山兵原・古賀(?)庵に学び、佐久間象山はもちろん藤田東湖や著名な学者や文化人との親交も厚くしていた。さらに被は、藩校で兵学・漢学を中心に藩士教育の任にも当たり多くの人材を育て、また数多くの著書を残している。
 没後、優れた学者兼政治家であった山寺常山をしのんで、門弟による頌徳(しょうとく)碑が長野市城山公園に建てられている。

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