旧松代藩文武学校

旧松代藩文武学校

旧松代藩文武学校

 昭和28年(1953)国の史跡に指定される。正面 冠木門 黒門 と言われた。
 松代藩が藩士の子弟に文武両道の教育を施し設置した文武学校「藩校」である。
 八代藩主真田幸貫公が水戸藩の弘道館をまねて建てたものである。

 敷地は藩士の建物が有り移築して、その後に嘉永5年(1852)の春から工事を始めることになっていたが、5月に幸貫公隠居し九代幸教公に譲り、6月幸貫公病死する。幸教公後を引継、翌6年の春から上棟するも、5月に花の丸御殿表納戸から出火し消失してしまい、仕上がった建物から文武学校は10万石の役所として使い、開校は2年後の安政2年(1855)になる。
 授業は藩士の子弟8歳から14歳迄が漢学を学び、武芸は15歳から35歳ぐらいまで本格的に学んだ。1年1回試験が藩主の前で受けるという厳しいものだったようです。成績が良ければお殿様からお褒めにあずかり、悪ければお父さん共々しかられ本人は落第となったそうです。
 文武学校復元について、松代群発地震が昭和40年8月3日頃から衰退する45年頃まで38,000回の有感地震があり、激しい時は2分30秒ぐらいの割合で続きました。その後3・4年間はたまに揺れる事もありました。地震の時は建物が毀れないように屋根瓦を下ろし、筋違いを取付補強して地震の落ち着くのをまった。それから落ち着いた昭和48年(1973)10月から第1次完了の53年(1978)にかけて年次に復元し、最終は槍術所の完成は、平成9年(1997)に昔の姿に復元されました。

文学所
 漢学を学ぶ教室とそれに連なる御役所、中央には炊事場が有る、尚南側に玄関が三ヶ所有る、文学所の上段の間にはお殿様がおいでになり、先生方や城の重役様方は中の間に、そして教わる生徒は下段の間で勉強し試験を受ける。また心配顔のお父様が入側(廊下)で子供の成績はいかにと控えている。
 剣術所・柔術所・弓術所・槍術所等各武道所の両側には畳の部屋がある。そこには各流派の先生方が座り、生徒を指導し、また年1回の試験をお殿様が見分する所が有り、そこは廻りの部屋より少々床が高く天井が張ってある。
東序
 昔の戦いは刀・槍・弓矢によっての戦でしたが、天文12年(1543)種子島に漂着したポルトガル人から当時の島主種子島時尭(トキタカ)が鉄砲を2丁買取り、それから30年過ぎた天正元年(1573)織田信長・豊臣秀吉時代の武将によって日本国中の大名に広がった。当初は火縄銃であった。鉄砲の出現は、日本史を変えるほどの革命的な武器であったといわれている。八代幸貫公は、特に西洋砲術を積極的に導入する。
 幸貫公は、天保12年(1841)~14年(1843)の間、幕府の老中職にあった。また19世紀当初からと在職中も多くの外国船が開港をせまり、日本沿岸の防衛の貧弱さから、幸貫公は、特に西洋砲術を積極的に導入する。授業は兵学・砲術とフランス式の教典に基づいて行われた。
西序
 東洋医学・西洋医学・小笠原流作法の勉強が行われた。
 「東洋医学」6世紀に仏教が百済から医学・易学・暦学が西暦550年に共に伝来し、その事により薬草による東洋医学が国内に広がる。特に疫病で860年代には、多くの人が死亡した。おもに川の水からのようです。当時は川の水が生活用水です。この事により神頼み・仏頼みによる祈りがさかんに行はれた。
 「西洋医学」16世紀にキリスト教が伝来する。(1549)ヤソ会宣教師ザビエル鹿児島に来て天主教を伝える。(1559)豊後(大分)にヤソ会病院開設されバスパルニビレラその前後に長崎で多く医学を学び、解剖学が進み、診察で病名がわかり手術も出来るようになり、西洋医学が広まった。
弓術所
 外の武道練習所と同じく、中央は板張りで側に畳の部屋があり、お殿様見分室もある。弓を射する所から的場までの距離は28m(15間半)昔も今も同じである。
 またどこの的場の屋根は木の皮で葺き、屋根と矢が両方いたまないようにしてある。
 間口9.1m(5間)ですが射者は1.8m(1間)1人の割で練習するも、建物を建てて間もなく桁が折れたため補強に柱を立てたので4人立が3人立となった。
槍術所
 建てる時は同じに建て、最初に出来上がりました。お殿様のお住まいと十万石の役所の花の丸御殿が火事で焼けた為、嘉永6年(1853)5月から2年間役所として使用した。また明治5年(1872)真田家の菩提寺の長国寺が火事で焼け、再建に槍術所を寺の庫裏として解体移転しましたが平成4年長国寺の庫裏新築により、長野市が旧地文武学校内に解体移転し往時の姿に復元されました。また槍の長さは、1.8m(6尺)、2.7m(9尺)、3.6m(12尺)、4.5m(15尺)ですが建物の大きさから3.6mぐらいまでの槍で練習したようです。
 現在は、剣道の練習が盛んに行われている。

※建屋の大きさ
  文学所
695,010㎡(211坪)、剣術所:165㎡(50坪)、東序:109㎡(33坪)西序:102㎡(31坪)、弓術所:136㎡(41坪)、槍術所:255㎡(77坪)、柔術所:108㎡(33坪)腰掛建物:19㎡(6坪)、文庫蔵:38㎡(12坪)
  敷地面積
4,748㎡(1,469坪)
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