真田家の歴史

 真田家は中世末期には真田村(現在の上田市真田町)を本拠とした在地領主であった。
 真田幸綱(幸隆)が武田氏について頭角を現し、その子昌幸は信玄・勝頼の信頼が厚く、上田から真田にかけての本領の他、吾妻郡から沼田にかけての西上野も支配する戦国大名となった。武田氏滅亡後、昌幸とその子の信之・信繁(幸村)は上田を本拠にしたが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などに翻ろうされ、関ヶ原の戦いでは、昌幸・信繁が大阪方、信之が徳川方についた。戦いの後、昌幸・信繁は現在の和歌山県九度山に流された。昌幸はこの地で亡くなり、信繁は大阪夏の陣で戦死した。
 信之は、昌幸の領地を安堵されて上田にいたが、元和8(1622)年に松代に移封され、初代松代藩主となった。信之は、92歳まで藩主として藩政の基礎を築いた。
 2代信政は沼田城主であったが、父の隠居にともない松代藩主となった。しかし、入部後わずか半年で没し、相続騒動を経て信政の6男である幸道が3代藩主となった。
 3代幸道の時代、幕府からの多くの課役、享保2(1717)年の大火による城下町や城内の焼失、繰り返す千曲川の氾濫などにより多大な出費を強いられた。
 4代信弘の時代は、藩財政が厳しく、藩主家族を含めて節約に努めた。
 5代信安は、事実上藩士の俸給が半額になる知行地半知借り上げの制度化などを行ったが、寛保2(1742)年の大水害で甚大な被害が生じ、さらに藩内では改革への反感から一揆も起こった。
 6代幸弘は、学問を奨励し、自らも能書家・俳人として知られ、中興の名君とされている。家老の恩田民親に財政を改革させたが、洪水に伴う花の丸御殿の建設などがあり財政は好転しなかった。
 7代幸専は彦根藩・井伊家の出身であり、幸弘の養子となった。この時代も藩の財政は窮乏しており、幕府の課役も重なり、金策に苦慮したといわれている。幸専も実子がなく、寛政の改革を断行した老中松平定信の次男幸貫を養子に迎え8代藩主とした。
 8代幸貫は、藩政の刷新、藩内の産業の育成や軍備の充実に努めた。幕府の老中も勤めた。また、佐久間象山、長谷川昭道はじめ多くの人材を抜擢した。
 9代幸教は幸貫の孫である。安政元(1854)年のペリー再来航時には海防掛として横浜応接所の警備にあたった。同行した絵師高川文筌の『横浜応接場秘図』にその様子が残されている。
 10代幸民は、宇和島藩の伊達家出身であり、幸教の養子となった。戊辰戦争では新政府軍の有力部隊として活躍した。明治19年以降、廃城後払い下げられて城の面影を失った松代城域の買収に努めた。

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