象山の横死

象山ノ横死

 実説見聞録紹介の2回目は、象山暗殺の記述です。
 遭難の模様については、松代藩士・三沢刑部丞が「木屋町に入ると三十歳・二十七・八歳の士出で、馬の左右に付添て行たりしが、俄にや声かけ股を切って立去れり。急に乗拔ケ行に、又待受けて腰の辺を切りたり」と記しています。(大平喜間多 佐久間象山)
 象山は、元治元(1864)年54歳で非業の最期を遂げています。遺骸は、京都妙心寺塔中大法院に葬られたということです。
 「象山の横死」としている「実説見聞録」の記述、以下原文のまま

元治元年七月十一日辰五時頃、松代佐久間象山、開港論書ヲ中山邸へ持参ノ帰途、京都木屋町三条下ル所ニテ浪士弐人ニ切ラル。馬上ニ乗リ居所ヲ始メ馬ヲ切ル。馬丁ハ馬ノ驚キト思ヒ、両手ヲ廣ケ馬ヲ止ム。此間早象山タヲル。傍ノ理髪店ニ死体ヲ収メ、夜ニ入近臣両人ニ守ラレ妙心寺ニ埋葬ス。松代藩ニテハ、幕府ニ憚リ會葬者一人モ出サズ。誠ニ気毒ノ至リナリ。其当時ハ象山ノ人気地ニ落ル。松代肴町清次郎ト云・表具屋ノ話シニ、佐久間ノ書ノ表装カ引受ノ者悉皆破談トナル。是レ表装ヲ付ル値打ナシト。

 文書後半、「象山の人気地ニ落ル」と呼び捨て。ところが明治25年の項には、一転「象山先生ノ碑」と尊称を付しています。これは家名再興(明治2年)、正四位の追贈(明治22年)などの結果、この間の世論の変化を現わしているのかもしれません。以下「実説見聞録」明治25年の項目。

明治二十五年四月三十日松代町ノ象山俗ニ竹山ト云 頂上マテノ道ヲ開テ佐久間象山先生ノ碑ヲ建ル。松代紙屋町山崎国太郎生レハ廣田村ニテ金具屋ト云 一身ノ財産ト有志者ノ合力ニテ、佐久間先生ノ遺跡ヲ初メテアラワス。

「贈 正四位佐久間象山先生碑」と題(題額 正二位山県有朋)する1,000余字からなる碑が、今も象山頂上に建っています。明治の人間の意気込みを象徴しているかのような巨大(250×140㎝)なものです。裏面には明治三十六年建之、発起人佐藤房次郎ら、世話人として確かに山崎国次郎(国太郎は誤りか)の名が刻まれています。
 さて、最後に象山の碑建立に中心的な役割を果たした国次郎は、ほかに何をやった人なのだろうか。
 象山中腹にある「山崎国次郎頌徳碑」(昭和9年建立)の碑文から抜粋しますと「此山ヲ開キテ遊園地ト為サント欲シ、明治二十五年私財ヲ拠チテ地ヲ購ナヒ特志者ノ賛助ヲ得テ、自ラ工事ヲ督励シ同二十七年竣工ヲ告グ、為ニ四季遊覧スルモノ益々多シ」。象山には遊園地があったのです。

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