和宮様東マ下リノ人足
島崎藤村の「夜明け前」の一節に「和宮の御降下は京都から江戸への御通行としても未曾有のこと…」とあります。実説見聞録の3回目は、この未曾有の御通行、皇女和宮の下向についての記述です。
一行が信濃路に入ったのは、文久元(1861)年11月1日。信濃の中山道を8泊9日で通過し、11月15日に江戸に到着したといわれています。
この御通行には、京都から1万人、江戸方から1万5,000人それに各藩からの警備の武士、動員された助郷人足などを加えると総勢8万人という前代未聞の大行列でした。(長野縣史・通史編)
道中の警固役は信濃各藩があたり、松代藩は長久保古町に本陣をおき、和宮の輿の警固に和田宿から沓掛宿までを担当。そして人馬継ぎ立ての助郷役として、農民にも大きな負担を強いて、松代藩領では水内郡81ケ村から木曽上4宿へ助郷2,500人馬570疋(郷土史長野128号)のほか長久保、望月、沓掛へほぼ同じ数の農民が出役したといわれています。以下、「実説見聞録」の引用です。
文久元年冬、公武合躰ト云、名目ニテ光(孝)明天皇・皇妹和宮殿下ヲ、江戸徳川家茂ヘ嫁スル事ニナリ、十月廿日京都出発、十一月五日江戸ヘ着ス。此時ハ中仙道通行ナリ。是レハ公卿侍ノ計ニテ駅馬人足多クツモリテ千人ヲ用スル見込ナルモ、道中ニテ一万人ハ人夫ヲ用スルト発布シタカ、宿場役人ハ、亦此人夫ハ村々ヨリ出ス事困難ニテ、皆價人足ナスナラン。然レバ宿場繁栄ノ為十万人ヲ用スルト村々ヘ割当タリ。村々ハ、此内情ヲ知ル故、價人足ヲセス人足ヲ出ス事ニ定メ、西寺尾村ヘ割当、助郷トシテ人足百二十人ナリ。各人搗餅五升玉ヲ背負、小県郡長久保駅ヘ出張ス。駅裏数百坪ノ仮家ヘ居ル事ナリ。然ルニ和宮様ノ御荷物ト云ハ、長持一本ヲ長久保ヨリ望月マテ 荷ヘ送リタルノミニテ、十一月十四日帰村セリ。数千ノ人足ハ毎日小屋ノ中ニテ餅ヲ食シ、徒々ノママ手ナグサミヲ成シタルヲ見テ、五明栄吉ト云カ「ありがたや和宮様ノ御みそら(身の上・境遇の意)で、今日も正月、あすも正月」ト云テ私ニ話シタリ。
11月14日帰村の栄吉さんは何日間村を離れていたのでしょうか。和宮の長久保宿の通過が11月7日ですから、少なくとも前々日までに現地入りしたと仮定すれば11月5日現地到着、出発から帰村まで10日間となります。
この未曾有の御通行から5年後の慶應2(1866)年7月に夫家茂が大阪城で亡くなり、以後、和宮は落飾して静寛院宮となります。幕末の非情な運命に翻弄された静寛院宮は、明治10(1877)年9月に療養先の箱根塔ノ沢で亡くなりました。享年32歳でした。好譽和順貞恭大姉。