慶應四年會津(戊辰)戦争 その1
慶應4(1868)年、正月の鳥羽・伏見の役から始まった戊辰戦争は、幕末の松代藩を大きく揺るがしました。この年、松代藩は太政官から信濃十藩の触頭を命ぜられ、勤皇尊奉の請書を提出するなどして、以来信濃他藩と共に旗色をはっきりさせていました。
実説見聞録 7回目は、幕末最大の動乱「戊辰戦争」について。
鳥羽・伏見の役の翌月には、相楽総三率いる偽官軍の信濃通過や松代藩の甲府城守衛のための出兵など、信濃路は早くも慌しい動きとなりました。4月に入ると、新政府軍に屈することを嫌った一部の旧幕臣が、江戸を脱して、奥羽・北越へ攻め入る情勢となり、北の飯山藩では「柏原源五右衛門と田中左司馬を松代藩へ派遣し、連絡しだい援兵を出してくれるように依頼した」(長野市誌)これを機に、戦闘経験に乏しい松代藩士の長い戦いがはじまったのです。これが、信州における初の戊辰戦争いわゆる飯山戦争です。
慶應四年三月幕府付ノ賊徒凡五百人 実ハ二百人、越後高田藩ヲ威シ付通リ越シ、富倉峠ヲ越テ飯山藩ニセマル。飯山藩ハ夜ル使者ヲ松代藩ヘ送リテ救ヲ求ム。松代ハ是ニ應ジ出兵ヲナス。小布施村通リニテ、安田渡船場ヲ賊軍ハ西岸、飯山ノ南端、提塘ノ陰ニ陣シ砲戦ヲナス。松代ノ大砲雷フル。金子伯温ノ発明ニシテ砲身長シ。威力ニ恐レ城ヘ火ヲ掛、越後路ニ迯ケ走ル。此ノ戦ヘニ松代方ニテ戦死者二名ヲ出ス。一名ハ東寺尾ノ人。是カ松代実戦ノ始メナリ。飯山町モ全部焼失ス。
この戦いで戦死したのは2人。うち二番小銃隊小頭 小沼長兵衛(42)は、「安田口に向かい対岸の敵と抗戦中に敵弾が右肩より貫通し胸部に抜け」(永井誠吉 松代藩戊辰戦争記 以下戦争記)戦死。浄土宗西念寺に葬られたという。
夫レヨリ引續キ會津征罰始ル。我村(寺尾村)ニテモ、飯山ノ砲声二三日續テ聞ユ。戦火ノ煙リハ、皆々鳥打峠ノ臼ケ窪ニ至リ見物ス。引續キ松代藩ニテ兵隊ヲ小布施通リト善光寺通リ繰出ス。善光寺通リノ兵隊ハ東寺尾ノ三本松ヨリ瀬関宮下ヘ出、寺尾渡舩ヲ渡リ行、近路ナレ共村内ハ一切通ラス。
この戦闘で飯山城下は「翌日まで燃えつづけ、慶宗寺・大輪寺・称名寺などのほか、町家900棟以上が焼失した」(長野市誌)という。
2日間にわたって燃え続けた飯山の煙は、遠く鳥打峠からも望めたのでしょう。2世紀以上も大平の世に生きてきた人々にとって戦争は恐怖とともに珍しくもあったのでしょうか。
松代藩の戊辰戦争は、このあと10月末まで、越後長岡の攻防戦を経て會津若松城の落城まで続くのです。時は慶應から明治に変わっていました。