松代の武家屋敷

松代の武家屋敷

松代の武家屋敷

 真田10万石の城下町であった松代には、かつての武家屋敷が今なお多く残っている。
 江戸初期に殿町・清須町が作られ、後に代官町・馬場町・表柴町・竹山町などの侍屋敷が形成された。

 松代の武家屋敷松代の城下町としての特徴の第1は、江戸時代以来の様々な形をした門が残っていることである。

門の種類
 松代の武家屋敷の門としては、薬医門・長屋門・冠木門・腕木門・棟門などがある。

薬医門
扉筋と棟木の筋が一致しないで、軒の出が深く切妻をのせた重厚で格調の高い門。
真田勘解由家・樋口家・赤塚家など。

 

長屋門
長屋の中間にある門で、旧白井家・旧横田家・山寺常山邸などがあり、長屋部分は住居として使われた。
冠木門
冠木(笠木)と呼ぶ横木を2本の門柱の上に貫き渡してある門で、屋根は無い。
旧真田邸・旧文武学校・小山田家など。
腕木門
扉筋と棟木の筋が一致している簡素な造りで、この松代城下の武家屋敷の中心的な門である。
開き戸でなく、引き戸の門を沼田門ともいう。酒井家・恩田家など。
棟門
2本の本柱の上に切妻屋根をのせて、本柱上部に冠木を渡し、梁でとめた門。
代官町の佐藤家。

 第2の特徴は庭園である。

庭園
 周囲の自然を積極的に取り入れた様々な庭園が造られていて、松代は「庭園都市」と呼ばれる。

配置は

前庭
門から玄関までにいたるアプローチの空間。これにより道路からの景観が良い。

 

庭園
建物の南側にあり、一般に泉水(池)を持ち、その向こうに築山を作って様々な木を植えて、池で鯉を飼った。
農地
農作業・家事その他の作業空間である。

である。

旧横田家住宅
 横田家は代官町にあり、150石取りの郡奉行などを勤めた松代藩中級武士の代表的な屋敷構えで、昭和61年に国の重要文化財に指定された。その後解体修理が行われ、完成後の平成4年6月から一般公開されている。
 住宅とともに菜園・泉水池・隠居所・土蔵2棟などがそろっている。主屋は寛政6(1794)年の建築で、寄棟造・茅葺。一部2階建で約49坪。表門の長屋門は天保13(1842)年に建てられ、切妻造で桟瓦葺。
 隠居屋は文政3(1820)年ごろの建築。寄棟・茅葺で約18坪。
 長屋門をくぐると1本のしだれ桜が植えられた前庭があり、土間は狭いが、客を通す格式ある式台の玄関と2つの座敷は広い。間口40m、屋敷地は3,340㎡(1012坪)あるが、約半分は野菜畑で自給自足を図ったあとがしのばれる。
 なお、横田家からは、大審院長となった秀雄、最高裁判所長官を勤めた正俊の父子をはじめ『富岡日記』の和田英、鉄道大臣となった小松謙次郎、八橋流の真田志んなど数多くの人材を出している。

山寺常山邸
 松代城から南へ歴史の道を進むと、常山邸の前へ出る。この長屋門は松代城下の代表的な門として、城下町のポスターなどでも紹介されるカメラ・スポットとである。
 常山は江戸後期から明治の初期にかけて活躍した140石取りの藩士で、師・鎌原桐山、友・佐久間象山とともに「松代の三山」とうたわれる。少年のころから志が高く、自らに厳しい性格で書物を好み、成人して監察・普請奉行を務めた。
 屋敷は江戸時代後期の長屋門と、それに連なる大正時代に建てられた離れ座敷「万竹庵」を残す。老朽化して立入ることができないが、先年長野市が購入して、家屋敷の復元と敷地内の公園化を進めている。
 庭園には泉水と泉水路がほぼ原形をとどめ、万竹庵周辺に往時の面影を残す。園内には昭和15年、時の司法大臣・塩野季彦の建てた常山の頌徳碑がある。季彦は常山の外孫にあたる。
 長屋門は桁行12間、梁間2間の寄せ棟造りで桟瓦葺きの建物。
 外壁は黄色漆喰塗りの腰下見張りで、江戸時代後半の建築と推定されている。中央の2間半に通路部分が設けられ、向かって右側は板壁、向かって左側は片開き潜戸が設けられている。通路部・潜戸に面して武者窓が付けられているが、これは中間が来客の監視をするためのもので、表側には出格子窓と与力窓がついている。

旧白井家表門
 松代藩の代表的な武家の屋敷門で、かつて表柴町にあったもの。昭和49年に長野市指定文化財になり、平成12年に文武学校前の広小路東側に解体移築・復元された。
 三間一戸門形式・桟瓦葺の長屋門で、門部は太いケヤキの角材で作ってある。間口20m。背面には3つの居室部を付設し、白井家の陪臣武士たちが居住したと見られ、門に住宅が続いているのは珍しい。長大な間口に対して屋根を低くおさえ、正面には左右に出窓と与力窓のみの単純構造で、意匠性も優れているとされる。建設年代は弘化3(1846)年。
 白井初平は100石取の藩士で、元方御金奉行や御宮奉行を勤め、その子平左衛門も御普請奉行などを歴任し、文武学校の権教授として出仕した。この表門が当地に移築復元の際、門を入って左手にある旧台所が、土間の休憩所に作り替えられ、訪れる見学者が利用できる活用型文化財として整備された。長屋門の右手にはトイレも設置され、左手奥には立派な座敷もあり、現在われわれ松代文化財ボランティアの会が常駐して、湯茶の接待や町内の案内ガイドを務めている。

真田勘解由家
 旧文武学校入口と旧白井家の門前に、薬医門と土塀に囲まれた屋敷がある。もう一つの真田家・勘解由邸である。
 当家は二代信政の長男の信就が寛文5(1665)年に徳川2千石の旗本となって勘解由を名乗ったときから始まる。
 現在の屋敷は江戸末期に、花の丸御殿の長局を移築したもので、真田家に伝わる初代信之からお通への手紙やお通の書・色紙・短冊・写本など多くの遺品を残している。勘解由信就は、信政が京都滞在中に2代目小野お通(図子)との間に生まれたといわれているが、このお通は初代藩主である父信之が深く思いを寄せていた初代お通(通子)の娘である。母のお通は和歌や書画・琴にも優れ、信長や秀吉らとも親交があったと伝えられている。家伝では娘のお通が「八橋流箏曲」を八橋検校に学び、これを勘解由家に伝えたとされる。
 その一方、8代幸貫が藩士の祢津権太夫夫妻を京都に派遣して、八橋流16代目の有一座頭から会得させ、藩内に八橋流を広めさせた。権太夫の妻千勢が娘喜尾へ免許を与え、喜尾が娘の伊豫(横田家へ嫁す)に伝え、伊豫が娘の由婦(真田家へ嫁す)に伝え、由婦から孫の志んに伝承された。長く途絶えていた八橋流は真田志んによって再興され、昭和44年に真田志んが国の選択無形文化財となった。
 その娘の真田淑子がそれを長野市の無形文化財として継承、毎年定期演奏会も開かれている。

前嶋家
 真田昌幸は次男の幸村と共に石田三成の西軍に属し、関ヶ原の戦に敗れて高野山へ流されたが、その時「房州様(真田昌幸)高野御入御供之十六人衆」の一人として随行したのが、二代前嶋作左衛門である。慶長16年昌幸が高野山で病死後、作左衛門は昌幸の一周忌後上田へ帰り、真田信之から本領を安堵された。
 信之が元和8年(1622)上田から松代へ移ってからは、現在の松山町の地に邸を賜り、明治の廃藩置県まで
10代にわたり、いろいろな奉行職として藩に仕えた。南側の道路に沿って土塀をめぐらし、母屋玄関前面の部分に瓦葺きの棟門がある。現在の建物は、天保12(1841)年に建て替えられたもので、2,500㎡の土地に200㎡ほどの母屋と、土蔵2棟がある。江戸中級武士(200石~300石)の代表的で貴重な武家屋敷とされる。

 松代にはこの他にも多くの武家屋敷があるが、以下は現在まで残っている代表的な幾つかである。

樋口家
殿町の真田邸の南側にあり、松代では現存する最古のもので、敷地がほぼ江戸時代のまま残っている。
大草家
紺屋町の信号の南100mの所にあり、漢方の藩医・大草子宣の屋敷。
彼は岡野石城・鎌原桐山と並ぶ漢詩人でもあった。現在は無住。
佐藤家
表門は棟門形式の茅葺屋根で、間口3.8m、棟高4.2m。寛政以前の建造で、門の奥に前庭が広がり、母屋に続き泉水池の庭園と自給自足の菜園があり、中級武士の住宅様式が良く残る。
保崎家
上州沼田以来の家臣で旧家。表門は間口1.6m、棟高3.2mで草葺の腕木門。平成12年に葺き替えられた。
山本家
わきにくぐり戸の付いた薬医門。屋根に懸魚が付いている。

 その他にも原山家・岩下家・片岡家・赤沢家・野中家・青木家・長谷川家・恩田家など見るべき屋敷が多い。

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