松代城の歴史

松代城は、戦国時代に武田信玄が上杉謙信の北信濃への攻撃に備え、その最前線基地として、山本勘助に命じて築いたと伝えられている。この城は、それまでの「山城」に代わり、平野部に築いた「平城」で三日月堀と馬出しを備えた甲州流のお城である。弘治2(1556)年真田幸網が上杉方の城であった尼巌城を略落させると、川中島は武田方の支配となる。その後、永禄3(1560)年頃までには、清野氏の屋敷を改修し海津城を完成させたと推定されている。
初代城主は、武田24将のひとり高坂弾正であった。永禄4(1561)年9月の4回目の川中島合戦の時には、武田信玄の本陣となり、妻女山に陣営を張る上杉軍に相対した。この本陣で軍を二手に分け、一手は妻女山攻撃隊とし、他方の軍勢は信玄が先頭になり八幡原で上杉軍と対峙した。武田氏が滅亡した後は、織田氏、上杉氏、豊臣氏、徳川氏と中央政権の変遷とともに、城主もめまぐるしく代わり、9人が歴任した。そして、元和8(1622)年真田信之が上田から松代に移封され、以来信濃最大の藩として真田氏10代が明治維新までの約250年間治めていた。
全国に区制を敷いた明治5年の調査では町の人口が16,038人(大室、西寺尾を除く)というから、昨今に近い。明治4年の廃藩置県後、松代城は一時「松代県庁」として使用されたが、同年松代県は長野県に編入となり、明治5年に廃城となった。

城の呼び方

城の呼称は、築城当時の地名を用いて、「海津城」と呼ばれていたが、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの前に、当時の城主森忠政が「待城」に改めた。一説によれば、森一族にとって待望久しい海津入城であったため、「待城」にしたという。 さらにその後、慶長8(1603)年城主となった松平忠輝(家康の六男)が 「松城」に改めている。このように改称を繰り返し、真田政権になり3代真田幸道のときに、幕命により正徳元(1711)年現在の「松代城」に改められ現在に至っている。

松代城の縄張り

松代城は、東・南・ の三方を山並みに囲まれ、城の西側には南から北へ流れる千曲川の大河があり、自然の恵みを受けた地形を利用した堅固な環境に置かれていた。城の防御としては、三重の堀(三の堀、外堀、内堀)と、三重の土塁や石垣が、本丸の東・南・西の三方を囲んでいた。三の堀の内側は三の丸、外堀の内側は二の丸と呼ばれ、内堀の内側が本丸である。北側は、江戸時代中期までは、千曲川が本丸のすぐ北を流れており、自然の防御施設となっていた。
「寛保2(1742)年の「戌の満水」以降、洪水対策として、千曲川を700mほど北へ移動させ、現在の位置とした。本丸の西から北にかけての旧千曲川は、百間堀および新堀として残った。
また、三の丸の西側の一角には、江戸時代後半に御殿として使用された花の丸があった。

道筋に沿って

1 大御門跡

城にはたいてい大手門と呼ばれる表玄関がある。松代城では大手口の門を大御門と呼んでいた。
位置は、真田宝物館の北西にある池田満寿夫美術館の敷地近辺にあたる。美術館の前庭に、発掘調査で発見された三の堀の石垣の一部が残っている。ここから本丸までの距離を考えると、規模の大きな城であったことが実感できる。「大手櫓(やぐら)御門絵図」によると、大御門は2階建 の豪壮な楼門で、下層の門扉を支える大柱は約55cm×48cmであり、大梁である冠木は約48cm×70cmと記述されている。 現在復活し、真田祭りなどで披露されている「大門(おおもん)踊り」は、この門の外側で行われていたことが名前の由来になっている。

2 三日月堀、南門跡

大御門から三の丸を通って二の丸へ至る門が南門である。大御門と南門の間には三日月堀(みかづきぼり)と呼ばれる三日月形の堀があった。この堀と南門からの丸馬出しは、武田家特有のものであり、山梨県の新府城跡などにもその跡が見られる。松代城は武田信玄が築城したという根拠の一つになっている。

3 二の丸跡、石場門

外堀と内堀の間が二の丸である。二の丸は本丸の東南西の三方を囲むように位置しており、その周囲は外堀と外堀を掘削したときの土を利用して築かれた土塁 (土手)に囲まれていた。本丸の東側が比較的広く、江戸時代初期には居館があった。藩主の縁者が住んで、郭(くるわ)名から「二の丸様」などと呼ばれていたようだが、享保2年の火事で焼失した後は、倉庫などが建てられていた。本丸東側の二の丸跡は、今回の整備工事が始まるまで、野球場として使用されていた。
二の丸の東側には石場門(いしばもん)跡がある。発掘調査から、石場門の石積みは、本丸の石垣と異なり比較的小さくて平たい石が積み重ねられていたことがわかった。これは、戦国時代(中世)に見られる古い石積みの方法で、二の丸までは、川中島の合戦が行われた当時からあったことが裏付けられる。そして、石場門の外側には、やはり三日月堀と丸馬出しがあった。現在、石場門は、土塁と石積みが復元されている。

4 本丸

本丸は四角形に石垣に囲まれており、隅の三カ所には隅櫓があった。石垣は正方形で内法72.4m、高さ3.72mとなっていた。本丸には石垣と3ヶ所の櫓(やぐら)台があるが、いわゆる天守閣はなかった。最も大きな戌亥(いぬい)の櫓台は、天守閣があっても不思議のない規模だが、記録や発掘調査では、上面の1/4程の面積に二層の物見櫓の痕跡が認められただけであった。絵図によると石垣の上は、3ヶ所の櫓とそれをつなぐ土塀で囲まれていた。石垣の上の建物としては、この櫓と蔵などがあった。石垣の築造年代は戦国時代から昭和のものまである。戌亥の櫓が最も古く慶長年間の築造であるが、その他の部分は江戸時代初期に築造され、その後補修された箇所が多い。石垣に上ると、南西方向には川中島の戦いの時に上杉謙信が陣を張った妻女山 がよく見える。距離的に非常に近いので、往時の信玄本隊の到着を待つ武田軍の気持ちまで偲べるような気がする。真田家が松代に来たとき、本丸内部には、本丸御殿と呼ばれる殿舎があった。
御殿には、藩主の私的な居宅と藩政を行う役所の部分とがあった。しかし、享保2年の火事や繰り返す水害のため、江戸時代後期には、本丸内部には若干の倉庫があるだけで、ほとんど使用されていなかったらしい。その代わりに、三の丸に花の丸御殿が建てられた。本丸への出入口としては、南側に太鼓門、東側に、東不明門(ひがしあかずのもん)北側に北不明門(きたあかずのもん)があった.通常は太鼓門のみが使用されていた。東不明門から二の丸へ渡る橋は江戸末に洪水で壊れた後、再建されなかった。そのため、東不明門もとざされたままだったという。明治に廃城になってから、堀は埋められ、城域はすべていったん藩士に払い下げられた。しかしその後、真田氏により買い戻され、遊園地として一般に開放された。本丸内部は、石垣の上も含めて桜の名所となり、毎年多くの人が花見に訪れるなど、懇いの場となっている。

5 太鼓門

内堀から御本丸橋を渡ると、橋詰御門と太鼓門からなる枡形城門がある。橋詰御門の形式は高麗門であり、太鼓門は2層の櫓門である。橋詰御門をはいると太鼓門の大きさに圧倒される。
今回の整備事業で、起こし絵と呼ばれる立面図などに基づいて、史料にできるだけ忠実に復元された。大名が威信をかけて建てた門であり、格式と重厚さが伝わってくる。しかし、この門は一般の城門のイメージとは異なっている。それは、門の屋根が通常はお寺や神社に使われている栩(とち)葺き(板葺き)であり、切妻屋根になっているためだ。室町から戦国時代初期にかけた中世・のデザインがそのまま踏襲されている感じがする。太鼓門の規模は、下層の門の部分が桁行3間梁間2間、上層櫓部分桁行6間梁間3間である。門の高さは約11.2mとなっている。

6 北不明門

北不明門は、松代城の横手(裏口)にあたる。この門も太鼓門同様今回の整備事業で復元され、完成は平成十五年度である。太鼓門同様に枡形を持ち、外側に枡形御門と呼ばれる高麗門があり、内側に二層の楼門がある。

7 新堀

江戸時代中期までは、北不明門を出るとすぐ千曲川の河原であった。そのため、繰り返し千曲川の氾濫による水害を受けた。特に、「戌の満水」と呼ばれる寛保2年の大洪水では、田畑は流失し、町内の民家はもとより、松代城の本丸、二の丸も床上浸水し、堀は全て土砂で埋め尽くされた。そのため、千曲川を現在位置に移す大工事が実施された。城の北裏にある新堀は、改修前の千曲川の名残である。新堀周辺には、たくさんの野鳥たちが群れて遊ぶ姿が見られる。
岸辺にはアシが生い茂り、水鳥が数多く生息している(カルガモの親子、ヨシキリ、シジユウカラ、バン、カワセミ、カイツブリ、白サギ、青サギ、キジの親子など)。廃城以前には新堀の西側に百間堀と呼ばれる長い堀も残っていた。今ではわずかに昔の面影を残す新堀を大切に保存する必要を感じる。

8 花の丸御殿

現在花の丸団地と称されている住宅群の一帯が花の丸の跡である。団地の南西隅には、当時の庭石と思われる大石と「花の丸跡」と記した碑が残っている。花の丸は、.千曲川の水害を受けた本丸に代わり、江戸時代中頃から藩主の政務の場兼居宅として利用された。明和7年から年中行事の中でも最も重要な儀式である年頭の挨拶を花の丸で行うようになった。建物の総面積は1,028坪(3,392㎡)で、建物の東側に玄関があり、玄関を入ると御使者の間、大書院、一・二・三の間(ここで年頭の挨拶などを行った)など、政務をする部屋があり、奥には局の部屋、書斎、湯殿などがあり藩主とその家族のプライベートな場であった。花の丸には南に大きめの庭園、北に小さめの庭園があった。茶室や宝蔵、物見の高台などがあり、藩主は石や橋などに命名し、茶道や和歌とともに四季の風流を楽しんだ。

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