花の丸御殿
1 花の丸御殿の変遷
松代城は最初海津城の名で、武田信玄が川中島合戦の際、前線基地として永禄3(1560)年頃築城し、以来多くの城主、城代を経て整備されてきた。松代藩の初代真田信之が元和8(1622)年上田城から移封されたころは、藩政の中心は城内の本丸で執り行われ、藩主の生活の場でもあった。
享保2 (1717) 年の大火により、本丸が全焼した。そのため本丸の西南にあった藩主の遊園の地が、藩主の避難所として用いられた。この頃すでにこの地が花の丸と呼ばれており、何らかの建物が存在していたようだが、火災復興にあたって急ぎ建物を建て、本丸の殿舎が完成するまでの間、藩主の仮住居とされた。この仮御殿は翌享保3年9月27日に完成した。また焼けた本丸御殿の普請は、享保6 (1721) 年に「御門櫓御屋固御祈祷」が行われ、同13年9月には完了している。その後しばらくはその本丸で政務が行われ、藩主の居宅となっていた。花の丸の仮御殿は、寛延4(1751)年の高田地震で被害を受け、宝暦3(1753)年に「たたみ置き」が決定して取り壊され、射芸の場として利用されている。しかしその間、本丸は幾度となく千曲川の洪水で浸水を受け、明和2 (1765) 年の水害被害の後は、新たな御殿を建てることになり、6代幸弘が明和5 (1768) 年に地鎮祭を行い、その2年後に完成したといわれている。でき上がった花の丸御殿は以前の本丸に比べてそれほど大きくはならなかったが、明りとりのため所々に庭を作ったので敷地は広くなった。その広さは東西230m(127間)、南北217m(119間)、敷地面積15,168㎡(4596坪)、建物面積3,392㎡(1,028坪)と記されている。 以後年中行事で最も大切な年頭の挨拶ではじまる藩政がここで行われ、藩主の家族も住むようになって、本丸の機能がすべて花の丸御殿に移された。
嘉永6 (1853) 年5月朔日の暮れ六ツ(午後6時) 時前、表御納戸二階より出火し、花の丸御殿をほぼ全焼して翌朝6時過ぎようやく鎮火した。これにより日記・諸記録をはじめ5,300両に及ぶ小判・一分銀・二朱金なども焼失したといわれる。その後直ちに再建にとりかかり、完成したのは万延元(1860)年であった(『海津旧顕録』)。しかしやがて幕末となり明治維新と廃藩置県を迎えた。明治5 (1872) 年の廃城後は、真田氏の邸宅として取り壊しを免れたが、明治6年10月19日午前10時頃、知事公館(旧花の丸御殿)北西奥より再び出火、御翌20日午前2時近くに火災は収まったが、主要の建物をほぼ消失してしまった。再建後13年目にして花の丸御殿は姿を消したのである。
加えて旧松代城の城域は家禄奉還の士族に払い下げになり、残った建物は解体されて内堀も埋められた。本丸外周の石垣だけを残して、広い範囲が桑畑になったという。
戦後は花の丸から百間堀にかけて花の丸団地が造成され、宅地となって現在に至っている。
2 花の丸御殿の屋敷
6代幸弘の時に建立された花の丸御殿は、政務を行う「表」の部分と、藩主家族の居宅としての「奥」の部分からなりたっている。
『海津旧顕録』によれば、大御門を経て三の丸に入り、左に御普請方小屋場、御武具方御武器蔵を見ながらお堀端沿いに西へ進むと、枝はお堀の上にかかり先端を水中に入るまでに延ばした「下がり松」と呼ばれる無類の名木が植えられていた。その先が花の丸御殿の御門である。
安政元(1854)年の絵図によると、総坪数は1,028坪で一部二階建てとなっている。建物の東側に玄関があり、そこから御広間を左に曲がると、年頭の挨拶や謁見を行った大書院、二の間、三の間につながり、その奥に藩主の居間が続いていた。
24畳敷きの御広間の入り口には、番頭1人と番士5人が昼夜の別なく警護に当ったという。床の間には真田家第一の宝物である吉光の短刀の入った長持ちと腰物箪笥などが置かれ、山鳥十文字の槍・長刀などは青貝の柄が輝いていた。玄関周辺と南東部は政務を司る公の場所で、それに対し建物の3分の2近くを占める北西部は、御野懸口から始まりお茶部屋・御湯殿・御居間・長局と続く藩主の私的空間が広がっていた。
玄関左手には雨宮神事のときだけ開かれる神事門があり、毎年4月に大書院前の庭で雨宮神事の獅子踊りが行われ、天下泰平・国家安全・五穀豊穣の祝詞が奏された。
3 花の丸御殿の庭園と茶室
花の丸御殿には、南に大きめの庭園、北には小さめの庭園があった。どちらも植栽豊に趣向を凝らした庭であった。また、茶室や宝蔵・滝・極目台(物見台)などがあり、藩主は橋や石、松などに名を付けたり、茶道や和歌で四季の風流を楽しんだ。
花の丸御殿を含む松代城内には、5棟ほどの茶室があったとされているが、そのうち九扈亭・信玄茶屋・知身貴亭・一圭楼の四つが広く知られている。特に8代幸貫の時代には、茶の湯が盛んに行われ、知身貴亭と一圭楼の2つの茶室を建てている。また、あまり手の加えられていなかった北の庭園も整備された。幸貫はこれらの庭や茶室からの眺望を絵師に描かせた絵が残っており、藩主自慢の庭園と茶室であったことがうかがえる。
季節や気候によっても茶室をさまざまに使い分け、城内外の景色を楽しみくつろいだ様子に、江戸時代の平和な一面が垣間見られる。このような御殿の庭園や茶室は、公的な儀式の場であるとともに、藩主の私的な場でもあった。
- 九扈亭
- 初代藩主真田信之が好んで使用した茶屋で、柴(松代町柴)の隠居所より移築され、手を加えながら廃城まで大切に使われた。朽木製で千丈和尚(千丈実厳・長国寺17世住職)の書を彫刻した額が架けられていたこの茶室は、南庭園の西側にあって見晴らしがよく、5月の田植えの頃はいつもご遊覧所となり、田植えをする領民に酒・肴・饅頭などを配ったと言われている。
- 信玄茶屋
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武田菱の紋を壁に透かした4畳半の茶室で、花の丸の南西隅にあった。西の方の見晴らしが良い建物であったが、九扈亭が南並びに建てられたこともあって、嘉永4(1851)年以前になくなったと思われる。
長押は大竹の2つ割、釘隠しは松笠、垂木は松の皮つきで作られていた。 - 知身貴亭
- 文政11(1828)年に幸貫によって建てられた夏用の茶室。藁屋根にして竹すのこ、むしろ敷きの風雅なものだった。茶室の額も幸貫自身の書である。本丸の北西に位置しているこの茶室は、北は飯綱山から越後の山々、西には茶臼山を越えて、遠く飛騨の山脈まで見ることができた。
- 一圭楼
- この茶室も知身貴亭についで、文政12(1829)年に建てられた。二階建て稲藁葺き屋根の建物で、そばには数十本の梅ノ木があり、開花の頃は見事であったと伝えられる。西には芍薬の園が配された。夏以外の季節にはこの茶室が良く使われた。桜の馬場の脇に位置するこの茶室からは、南部の皆神山・のろし山・竹山(象山)・妻女山などの山々が見渡せた。
4 花の丸御庭焼
江戸時代には戦がなくなり、藩主や家老にとって文芸の道、即ち書画・和歌・茶の湯・能などが公式行事や諸大名の接待で重要な位置を占めるようになっていった。真田家伝来の道具の中には、それらを物語る多くの茶碗や香道具がある。特に8代幸貫は、花の丸御殿の中に窯を築き、須坂から招いた吉向焼きの吉向治兵衛の弟子の指導を受けて、多くの作品を焼いた。これが花の丸の御庭焼きで、技術的には稚拙な面を残しながらも殿様の作品として、時々真田宝物館で展示されている。とりわけ香合は形がさまざまで、食器類やナスなどの野菜を模したもの、十二支などもあり、幸貫の遊び心を伝えている。
5 淵玄亭
花の丸には藩主が政務を担った大書院など公的な部屋がある一方、側室や数多くの腰元たちの居住の部屋などがあり、それぞれの部屋によってその役割は違っていた。現在に伝わる花の丸の資料は少なく、藩主たちがここでどのように過ごしていたのか、その様子を詳しく知ることは出来ないが、最近この花の丸の一部であった淵玄亭と呼ばれる建物が発見された。この淵玄亭には9代幸教の実母・順操院がすんでいた。8代幸貫は白河藩・松平定信の二男で、7代幸専の養子として松代藩へ入ったが、文政8(1825)年に国元から実子幸良を養子として迎えた。その幸良の側室はフランス学の先駆者・村上英俊の妹で於順(幼名・チエ)といった。於順は幸良が正妻を迎えた数日後に男子を生み、雄若(おわか)様と呼ばれた。これが後の9代幸教である。幸良は天保5(1843)年、29歳の若さで江戸にて死去した。於順は幸良没後、剃髪して心戒と改名し、安政2(1855)年からは順操院と呼ばれた。安政5 (1858) 年には花の丸御殿奥殿の傍らに居住の建物が建てられ、幸教(文聡公)より淵玄の二字を賜った。
当時の花の丸を描いた絵図には、「順操院殿居間」と書かれている。順操院の部屋は御奥御土蔵の近くで、御殿の最も北に位置していた。8畳の居間に6畳の次の間があり、縁側で他の部屋とつながっていた。この淵玄亭は明治4年に松代町東条の民家に移築され、その構造をほとんど変えることなく現在に伝えられた。襖絵などに当時の花の丸御殿の生活の面影を残している。この建物は平成15年5月に調査・解体されたが、いつの日にかしかるべき場所への復元が期待される。
松代城の調査と記録に尽くした「長岡助次郎」
長岡助次郎(1871~1939)は、明治から昭和にかけて松代小学校の音楽・美術の教師として50年以上活躍し、郷土の文化交流に大きな業績を残した人物である。松代に生まれた彼は、松代雅楽と大門踊りの復興、松代城・花の丸御殿の地図および模型の作成、真田家伝来の大名道具や資料の整理などをおこない、松代ゆかりの絵画・書・武器具などを集めた展覧会の開催事業なども手がけた。松代城の地図は大正5年から約1年をかけて完成させ、大正9年1月には、花の丸御殿の模型製作に取り組んだ。10年以上もかかったといわれるその模型は、非常に貴重なもので真田宝物館の所蔵となっている。こうした助次郎の偉業は現在松代の伝統文化の基礎となり、松代文化の中興の祖ともいえよう。
「松代城花の丸旧跡」の碑
「海津旧顕録」は、松代藩士であった堤俊詮が明治13年2月、廃城以前の城内の形や社寺の興廃などを、子孫のために書き留めた書である。この書の中に、「花之御丸御旧跡之事」と題して、「名にしおふ松代の花の丸ハ、むかしより松桜の御植込み御殿の結構御庭の風景何といふ事なく美を尽し、御歴代様御住居被為在しか、時なる哉かかる錦殿も一時に御取崩し数百年一斧の難も無し、花木と一時に切払い地所ハ不残御払下ケニ相成、夫々耕地ニ相成しか御庭の立石のミ大石なれハ取片付にもならず有りしか、其侭にてハ耕地の傍りにて可相成いつれ火薬を以割取候より外手段も有之間敷と評議、・・・」と記されている。
そして同書によれば、この庭の立石は大鋒院(信之)以来、今まで260年も松代城とともにあったもので、このまま火薬で爆破されるのは嘆かわしいことと明治11年、新御殿(真田邸)詰めの中沢保孝が仲間の吉沢恒三郎に相談し、吉沢は浦野季邦に話し、浦野は当時花の丸の土地を払い下げられて持ち主となっていた西条村の原田仙三郎へ頼んだ。その原田が現在の花の丸団地の西南隅へ大石を移動して現在に残されたものという。こうしてかつての藩士の有志が資金を集め、15坪の土地を金3円の利子で小作地として借り受ける契約をし、3個の大石の横に、7寸角(21cm)、高さ6尺(約200cm)の柴石の正面に「松代城花之丸舊蹟」、裏側に「明治十二年三月」と刻まれた石碑を建てた。現在その土地は市有地となっている。