真田山 長国寺
1 真田氏の菩提寺・信州の曹洞宗統括
松代城跡の真東、松代町田町のはずれに曹洞宗・真田山長国寺があります。本尊は釈迦牟尼仏で、山号の通り真田家の菩提寺として栄えた名刹です。
今尚、六文銭とかつての松代城大御門の鯱のついた大きな瓦屋根の本堂が昔の偉容を誇っています。由緒は真田郷出身の真田幸隆(1513-1574 昌幸の父、信之・幸村の祖父)が、葛尾城主・村上義清との戦いに敗れ上州で浪人をしている時に、長源寺(安中市後閑)の禅院において、客を接待する役職(役寮)の一つの知客(シカ)又は典客・典賓という地位にあった伝為晃運(1573没)が、幸隆をかくまって世話をしてくれました。
そこで幸隆は伝為和尚に本領回復の時には寺を建ててやると約束したのです。その後幸隆は信玄の武将として活躍し、ようやく天文十六年(1547)に約束を果たし真田郷の松尾城内に真田山長谷寺を建立し、伝為禅師を開山第一世に招請しました。永禄七年(1564)松尾城外に移され、本格的な禅刹としての諸施設を整え、慶長二年(1597)第四世宝室良達の時に上州の総録・雙林寺の副録となりました。元和八年(1622)上田藩主・真田信之の松代移封にともなって、現在地に移転し、寺号も長国寺となったのです。
慶安四年(1651)幕府より朱印百石を賜り、それ以後、時の住職は七年に一度幕府へ年頭の挨拶に参賀し、特に乗輿を許され帝鑑の間に通されました。その上、寺社奉行所では別席の接待を受けました。真田家からは二百石与えられ、信之と一緒に来た長国寺第六世住職稟室(ホンシツ)大承は、幕府宗教行政の責任を担う総録所として、信州一国の曹洞宗寺院八百カ寺を管理統括していたと、現住職に伺いました。
従って長国寺は①真田家の菩提寺、②江戸時代を通じ官寺(役所)としての副録所、③禅僧の修行道場、という三つの大きな役目を持っていたのです。当時は総門、禅門、開山堂、本堂、江湖寮(三棟)、衆寮、庫裡など東西約百三十メートル、南北約二百六十メートルという広大な敷地に大伽藍が並び建っていたのです。しかし享保二年(1717)の四月、袋町失火の関口火事で霊屋と鐘楼を残し全焼してしまいました。
2 最盛時 三十余寺の伽藍
享保二年(1717)の大火後、直ちに恩田木工重禧と望月冶部左衛門を総宰として再建に着手し、享保四年本堂の上棟式を行い、翌五年山門を造営しました。しかしその後、戌の満水と言われた寛保二年(1742)の大洪水で、又本堂が大破し、ようやく文化七年(1810)恩田木工宜民(木工民親の息子)を監造総督に任命して建て替え工事を行い、その後年々増築して以前の七堂伽藍が、復元完成されました。その頃が長国寺の最盛時で、「長野県町村誌」によると本堂、開山堂、玄関、庫裡、大方丈、小方丈、僧堂、衆寮、浴司、経蔵、鐘楼、総門、山門、回廊、五棟の霊廟とそれぞれの門、宝蔵二棟、五棟の塔頭など三十余棟に及ぶ大小の伽藍が一万坪の境内地に甍を列ねていたといいます。
しかし又々、明治五年(1872)五月十五日本堂より出火し霊屋、鐘楼、総門、土蔵を除いてすべて焼失、六千余巻の経巻と保管されていた二百五十年にわたる藩及び役所関係の記録文書も全部焼けてしまいました。火災直後に書かれた「長野県管下第二十九信州松代長国寺境内全図」という、縦横五メートル余りの大きなお寺の配置絵図を見ましたが、そこには克明に以前の伽藍配置が色分けして描かれ、もう一枚の一回り小さい絵図には、焼失した部分の詳しい説明が書かれ貼り付けられていました。
現在の本堂は、明治十九年(1886)十代藩主幸民により、第二十九世大典古鏡和尚の時に建てられましたが、その規模は以前のものに比べはるかに小さいものになってしまいました。庫裡は当時廃校になっていた旧文武学校の槍術所を移築されていましたが、その文武学校が昭和二十八年に国の史跡に指定され昭和四十八年からの完全復元事業の為、返還され再移築されました。そこで新しい庫裡が平成九年に完成し、江戸期・天保五年(1835)第二十四世白翁一圭和尚の代に建てられたと同じ豪壮な構えを、今に見ることが出来ます。真田家の五棟の霊廟は大木で囲まれ本堂東側に離れてあったため、相次ぐ火災でも類焼を免れ明治維新まで並び建っていました。南側から四代信弘、初代信之、三代幸道、二代信政、そして幸道の母松寿院の霊屋(位牌安置所)です。
3 豪華絢爛信之公の霊屋
その上、祠雲院、向当院、敬全院、奉中院、承松院の五塔頭(タッチュウ 五別当院)がそれぞれの霊屋に奉仕して建っていたのです。しかし廃藩後真田家窮乏のため明治十九年本堂再建の時、幸道の霊屋は本堂裏に移され開山堂となり、現在信弘の霊屋とともに県宝に指定されています。
開山堂とは、その寺を最初に開かれた僧、すなわち開山の像や位牌を祀るお堂で、現在第一世伝為晃運以下初期の和尚たちの大きな木像と、位牌が安置されています。しかしこの開山堂は、傷みが激しく文化庁から毎年のように、移転と全面復元改築のお話があるとのことですが、住職は檀家に多額の負担が及ぶことを心配され、苦慮しておられました。昔のように真田家からの経済的な援助が期待できない現在、文化遺産を維持し、江戸時代最盛期の官寺へ戻すことは大変なことのようです。 二代藩主信政の霊屋は父信之の霊屋と同時に建てられ、造りも殆ど同じで立派なものですが、昭和二十七年に清野の林正寺へ本堂として移築され、県宝となっています。又、松寿院の霊屋は御安町の孝養寺の本堂として移築されましたが、明治二十四年の大火で焼失してしまいました。従って現在長国寺のお霊屋には初代信之と四代信弘のものだけが残っています。万治三年(1660)に松代藩が日光東照宮の建築技術の粋を駆使して建立した信之の霊屋は、その表門とともに昭和五十一年国の重要文化財に指定され、昭和五十六年に解体修理工事が行われ、創立当時の桃山風の豪華絢爛たる姿に生まれ変わりました。費用は約一億二千万円かかったと言われ、入母屋破風造りの本殿と切妻造りの四脚門の表門は、いずれも屋根をサワラ材の手割り板のこけら葺きです。軒や柱、高欄などは黒漆で塗り直し、本殿の破風や軒にある鶴、松、牡丹などの豪華な丸彫り彫刻は日光の塗り師によって塗り直されました。以前は扉も無垢の欅一枚板を彫ったもので、金具も純金だったそうです。
特に本殿千鳥破風の二羽の鶴は左甚五郎の作と言われ、金色に輝いています。後にこの鶴から「長国寺のツル」の民話まで生まれました。第十七世千丈実巌は「況や侯家昭穆(ショウボク)の祠、五宇、甍を列ね、金碧、日に輝く・・」と詠嘆しました。
4 歴代住職数多くの名僧
最も南側の信弘の霊屋は、元文元年(1736)建立の宝形造りで、昭和四十一年県宝に指定され昭和五十八年から大修理されましたが、信之のものに比べて簡素な造りです。廟内には信弘と藩主婦人達の位牌が安置されています。藩の財政が悪化して五代藩主以後の霊屋は作られませんでした。
次に歴代藩主の墓所は二人の霊屋の後方(東側)にあって初代から十二代までの藩主の院殿大居士の大きな墓碑が整然と並んでいます。石材は殆ど近くから取り出された赤い皆神石(安山岩)です。また、大正三年に十一代幸正公の建てられた幸村父子の供養塔もあり、この墓所は国の史跡となっています。終戦後暫く、建立以来既に三百年を経て霊屋は荒れ果て、鐘楼には鐘もなく、子供たちの遊び場になっていました。冬には霊屋の北側には小さな池があって下駄スケートをした覚えがあります。今は鐘楼も立派に修復されています。
長国寺本堂の北側の墓地には真田家次席家老小山田家をはじめ、「日暮硯」で知られ宝暦の藩財政を立て直した恩田木工民親の墓(市史跡)、初代埴科郡長で「富岡日記」の著書・和田英や、大審院長になった横田秀雄の父横田数馬、松代藩士で嘉永四年(1851)本因坊跡目の秀策と対局して賞賛された囲碁の名手関山仙太夫、早撃ち銃を考案した鉄砲鍛冶の片井京助(真田宝物館に現在展示)、幕末に象山と相反する立場ながら、松代藩を勤王方に導いた長谷川昭道、真田桜山(志摩)等の他に、上級家臣のお墓があります。戦後は新しく墓地も造成され県警関係の幹部だった方々のお墓もいくつか見られます。長国寺の歴代住職は、第一世伝為晃運から今日まで数多くの名僧を迎えています。
中でも有名な住職をあげますと、第六世稟室(ホウシツ)大承(1642没)で長国寺を松代へ移し、松代の官寺・長国寺の副録の初代として信州一国の宗門行政に手腕を発揮しました。第十一世寧邦運卓(1637-1711)は、長国寺を江戸時代の新しい制度による、常恒会地(ジュゴウエチ)と言う毎年必ず夏・冬の二回、九十日づつの禁足安居(禅修業)をする寺にしました。ここでの厳しい修行を積んだ僧が、指導的な禅僧となれた信州一の格式の高いお寺だったわけです。
5 実厳著名な漢詩文家
第十四世密蜂静雲(1684-1768)は非凡な修業経歴を持つ学徳兼備の禅匠でした。第十七世千丈実巌(1723-1802)は近江の国に生まれ、十一歳の時勢州龍光院で得度、十九歳で長崎へ遊学、天産霊苗(1676-1743)を第一の師と仰いで、中国語および漢詩文を学んだ。やがて当時安曇郡の名刹・大沢寺(現在大町市)の住職となり、当時のお寺の財政難や火災後の再建復興に努力されたようです。「されば藩主真田幸弘、その知徳を欽慕するの余り、安永八年(1779)聘して長国寺を嗣がしめた」(松代町史)とありますが、これには岡野石城、河原正南兄弟の熱心な推薦があったようです。
しかし「官寺・長国寺は宗教行政という俗務を処理するところであり、藩侯、重臣、寺社奉行などの俗家との階和が必須となる。しかも長国寺は大沢寺同様、多くの雲衲(ウンドウ、修行僧)を置く常恒会地(常法幢地)でもある。住持(堂頭 ドウチョウ)たるもの、詩文に親しんだり、文人才子との青談を楽しむ余聞は、なかなか得られるものではない。」と現住職は「幽谷余韻入門で」で記しておられます。その後森村(現在更埴市)に華厳寺を創立して引退し、最後は故郷の江州で亡くなりました。彼は漢詩文家として全国的に知られた僧で、著書に弟子の鎌原桐山等によって編集出版された漢詩文集「幽谷餘韻」三十巻があります。この書は現住職佐橋法龍和尚の監修のもとに、更埴市と松代町在住の郷土史家八名の方々の労作・注釈本「幽谷餘韻入門」第一巻は平成十二年に第二巻は平成十四年に刊行されています。千丈実厳の生涯についても詳しく述べられ、「松代町史」の誤りなど多く指摘されています。
次に第二十八世大岡楳仙(1825-1901)は、勅特賜法雲普蓋禅師で大本山総持寺独住二世となった人です。第二十九世大典古鏡(1830-1891)は、明治五年の火災で、主要な伽藍総てを失った長国寺の復興に尽くした再中興の僧です。古鏡和尚は金沢の豪商・銭屋五兵衛の甥と言われ、密貿易で罰せられた後出家し晩年信濃へ入り長国寺の住職になったのです。弟の米倉勢吉が東寺尾に木挽き職人として住んでいて兄弟力を合わせ寺の再建に努力しました。
6 法龍現住職多彩な執筆活動
第三十一世道山玄光(1847-1929)も勅特賜法雲普蓋禅師で大本山総持寺の独住六世となりました。学徳兼備の宗匠で、長国寺には明治三十年から大正十年までの二十四年間勤め、信州一円の人達に絶大な感化を及ぼしました。 第三十二世青山物外(?―1948)は、現在長国寺本堂左側に大きな物外和尚の銅像が建っています。名古屋に生まれ幼くして父を失い、十三才で単身行脚して能登大本山総持寺に石川禅師の門を叩き修業に励みました。長国寺の住職を勤めた後横浜鶴見大本山総持寺の再建に尽力し石川門下の十哲に入っています。
第四十世住職は現在の佐橋法龍和尚です。東大の印度哲学科から国史学科へ転じて卒業され静岡県の金剛院の住職になられた後、昭和五十五年に長国寺へ来られました。小柄ながら自由奔放、博学多才、古代中国語も堪能で中国、印度へも度々研修に出かけられています。お寺での諸行事、参禅会、勉強会の他に執筆や講演活動などに精力的な毎日を送られています。師の著書には多くの宗教書、専門の研究書の「禅語小辞典」などの他に、エッセイや推理小説も書かれ、平成十二年には随筆集「長国寺巷談」(新版)が出版されました。
長国寺所蔵の宝物には第四世宝室良達(1602)の密参録(古禅僧の公案参学ノートで全五巻の内四巻)、古文献、雪舟、風外の書画など多くあります。また平成六年には蔵の中から、たまたま他の資料の調査にこられていた、大阪芸大の田中敏雄教授の目に止って、岩佐又兵衛(1578-1650)筆の絵巻物「堀江物語」が発見されました。苦労して親の仇討ちをした主人公が郷土に帰り、立派な館を建て祖母を迎えて幸せに暮らすという十三メートル以上に及ぶ色鮮やかな絵巻物で、現住職のお話だと、これは非常に貴重なもので重文にも相当するそうです。一昨年真田宝物館でも展示されました。
岩佐又兵衛は、戦国時代に生まれ江戸初期に活躍した画才豊かで、生き生きとした人物描写が特徴で「洛中洛外図屏風」で有名です。この絵巻物は、岩佐又兵衛筆「堀江物語絵巻」(残欠本)として関西学院大名誉教授・美術史専攻の磯博博士の詳しい解説付で長国寺から平成十年に出版されています。
7 象山とつながる長谷川家
長国寺境内の本堂前右手には長谷川五作(1880-1963)先生の胸像が建っています。先生はエノキダケ栽培法の確立者として知られていますが、更埴市杭瀬下に生まれ、松代町の長谷川家へ養子に入られました。明治三十六年長野県師範学校第二種講習科を終えて杭瀬下小学校に勤務され、その後東京で再び生物学を学ばれた後、竜江、川田、松代小学校等に勤め、大正八年文部省検定試験植物科に合格し、愛知県女子師範学校、東京の中学校で教壇に立ちました。
最後は現在の屋代高校で大正十二年から昭和三十年まで、三十二年間にわたって生物の授業を担当しながら、種々の動植物について研究をされました。特に遺伝学の先覚者として蚕、ムギ、エンドウ、トウモロコシなどの交配実験を行い、遺伝学の普及に努められました。大正時代には信濃教育会が作っていた「理科学習帳」などの誤りも、実験を通して実証的に指摘し、高等小学校の学習帳に遺伝の教材を初めて加えました。そして昭和二十六年には長野県教育委員会から、昭和二十八年には文部大臣から教育功労者として表彰されました。
さて長谷川家はまた代々松代藩へ仕えた士族で、佐久間象山とも大きな繋がりがあります。象山の祖父彦兵衛は跡継が亡くなってしまい、その時の藩主幸貫はの名家の断絶を深く惜しんで、藩士の中から有能の士を選んで後継者にしたいと思っていたのです。たまたま文武両道に達し人物識見ともに優れた人として、白羽の矢が長谷川家三十六代善員の長男 長谷川国善なる人に当りました。この人こそ象山の父佐久間一学で、長谷川國善と言う名で佐久間家へ養子に入ったのです。勿論その長男が佐久間象山(1811-1864)です。長谷川五作先生は長谷川家第四十二代目に当たります。先生の研究論文、論文遺稿、郷土史研究、エッセイなどの他、友人や教え子の思い出、先生の年譜などが屋代高校同窓会でまとめられ、「長谷川五作先生著作選集」として昭和四十三年(1968)に出版されました。
参考資料:「松代町史」「長野県町村誌」「史跡松代藩主家墓所整備基本計画書」「幽谷余韻入門」「禅語小辞典」」「長谷川五作先生著作選集」等