続・諸大名ノ奥方話
参勤交代の緩和により、殿様夫人や家族が領国松代へ帰ってきました。日々特別な御用もなく近くを散策していたようです。実説見聞録の5回目。9代藩主幸教の正室真晴院(讃岐松平家)のある日の行動から。以下原文のまま。
有(或)日、一行―讃岐組―西河原ヨリ浄真寺ニ来リ座敷入リ、主僧ノ饗応ノ茶ススリナカラ、南善哉ノ茄子ノ実ヤ花ノ紫色ナルヲ初テ見タル事故、殊ノ外珍重シ、「可愛ラシ小茄子実ヲ一ツ呉レロ」ト云。主僧「イクラデモ御取リ下サレ」ト答タルト、時ニ女中共一時ニ茄子ノ木ニ取付、掴モテ茄子木ノ刺ケニササレ、「アアコハイ」ト同音ニ発シ、驚ヘテ迯ケ入リタリ。是レ珍聞ノ一ナリ。
浄土真宗・池田山浄真寺は、永禄4(1561)年の川中島合戦の際に焼け落ち、文禄年間に下氷鉋からこの地に移ってきたという名刹。(当会編著 松代見て歩き)茄子のとげにさされ「驚ヘテ迯ケ入リ」は当時の百姓にとっては珍聞だったのでしょう。
夫ヨリ帰城セント、大島雅之助裏ヘ出、宮ノ方ヘ折レテ行ク可キヲ案内ノ老人知ラズ、真直ニ畑中組ニ出タリ。折悪ク奥方ノお下モノ御用カ仰セ出サレタル故、お下ト云ハ便所事ナリ。老人マゴマゴシテ出、ハツレノ山本伊左衛門ノ家ヘ至リ、お下ノ御用ヲ通ス。同家ニテハ五六人ノ雇人ト共ニ庭ニテ麦コナシ致シ居リ。女子共ハ驚ヘ、家内ヘ逃込タリ。老人家内ニ入、お下ノ意トキヲシテ案内ヲ乞。其時衆ニ押レテ案(内)ニ出タルハ、半身継々ノ衣着、腰部ヨリ下ハ仝ジ腰巻ヲタラシタル尼僧ナリ。奥方ノ御手ヲ取テ下庭ニアル便所ノ前ノ薦垂(こもたれ)ヲ上ケテ、御案内シ御用濟ノ後、片ワラノ井戸水ヲ汲み、釣瓶(つるべ)ニテ水ヲ御手ニ掛、清メマイラシタリ。二ノ珍談ナリ。此尼僧ハ寺ニ居ル僧ニアラズ。中島組ノ人ニテ、身貧故、夫ハナケレドモ桶屋ヤ鍛冶屋ヲ子ニ持ツ人ナレ共、頭ヲ丸メ托鉢ナシ。亦農事ニ雇ワレ其の日ヲ送ル人。此尼僧ハ一世ノ名挙(誉)ト云ベシ。
トイレを貸してくれと云われた伊左衛門さん方ではビックリ。「女子供ハ家内ヘ逃込」と当時の藩体制のなかでの庶民の驚きの様子が表現されています。
一世の名誉となった尼僧は「半身継々ノ衣着」「奥方ノ御手ヲ取テ」「薦垂ヲ上ケ」「水ヲ御手ニ掛」けたというのです。この身貧の尼僧に藩からご褒美があってしかるべきかもしれません。
この後まもなく、参勤交代は復活して真晴院は松代を去りました。夫幸教とは、明治2(1869)年に死別。
その後、真晴院は明治の激動の時代をひとりで生き抜き、大正5(1915)年5月東京で亡くなりました。享年83歳、法名は真晴院観瑞妙慶大姉。